更新日:2025年07月14日 17:17
スポーツ

巨人・戸郷はこのまま終わってしまうのか?「上原、内海、菅野」が持っていて「木佐貫、東野、澤村」が持っていなかった“エースの条件”

「エース」とは何か。単なる勝ち頭のことではない。巨人軍という“特別な球団”において、エースとはチームの精神的支柱であり、勝利を義務づけられた象徴である。そして、その“巨人のエース”に名を刻む者たちは、不思議と共通の運命を辿っている。 それは、一度は調子を落とし、挫折を経験しながらも、そこから再び這い上がり、信頼を勝ち取ってきたということ。一方で、期待されながら道半ばで終わった者たちも少なくない。この分岐を決定づけたものは、何だったのか? 21世紀以降でエースと称された選手の足跡をたどりながら、それぞれの“落ち方”と“戻り方”を見ていこう。
戸郷翔征

戸郷翔征 ©産経新聞

上原浩治 ― 完成されたルーキーが知った挫折

1999年、大学からプロ入りした上原浩治は、1年目にして20勝、179奪三振、防御率2.09を記録。沢村賞、新人王、最多勝、最多奪三振を獲得。まさに圧倒的なデビューだった。 だが、2000年、2001年は登板数こそ多かったが、肝心の防御率が悪化。ルーキーイヤーの疲れに加え、打者に研究されたことで、ストレートとスライダー主体の投球が通用しづらくなっていた。試合中に制球を乱す場面も増え、順風満帆なキャリアにはじめて陰りが差した。 この年を境に、上原はフォームの改良に取り組む。その結果、ルーキーイヤーに数々の打者から空振りを取っていた手元で伸びるストレートが蘇り、2002年には17勝、防御率2.60で2度目の沢村賞に輝いた。さらに、この年はチームをリーグ優勝、日本一に導いた。その後も、巨人のエースはもちろん、2007年は抑えとしても活躍を見せた。さらに、国際大会では、松坂大輔と並んで先発陣を牽引。無敗を記録した。 上原がエースとして安定して活躍していた時期に、木佐貫洋という“もう一人のエース候補”も存在した。2003年にルーキーイヤーで10勝を挙げ新人王に輝いたが、翌年以降は肘や肩の故障に苦しみ、一軍定着に苦しむ日々。上原と木佐貫──彼らの差を分けたのは、落ちた後の再起力だったのではないか。

内海哲也 ― 選手寿命を延ばした継続性

内海哲也は、2004年に社会人からプロ入り。上原の次世代を担うエースとして期待された。2006年に12勝を挙げて頭角を現すと、2007年には開幕投手を任され、最終的には14勝、180奪三振を記録し、最多奪三振を獲得。名実ともに“エース”としての地位を確立した。 しかし2010年、突如として不振に陥る。打ち込まれる試合が続き、最終的には防御率4点台に終わる。 内海は新たにフォークを取得し、それを武器に安定感が戻っていった。その結果、2011年には18勝、防御率1.70と完全復活を遂げた。さらに、2012年には15勝を挙げ、リーグ優勝、日本一に導いた。 同時期、ローテーションに並んでいた東野峻は、2010年に13勝を挙げ、次期エースとまで言われたが、翌年には成績が急降下。フォームの不安定さやメンタルの浮き沈みを克服できず、第一線から離れていった。 内海の強さは「活躍し続ける創意工夫」を怠らなかったことにある。全盛期が短命で終わりがちな現代野球において、「長くローテにいる」という意味でも、“真のエース”であった。
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菅野智之と戸郷翔征
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野球評論家・著作家。これまでに 『巨人軍解体新書』(光文社新書)・『アンチデータベースボール』(カンゼン)・『戦略で読む高校野球』(集英社新書)などを出版。「ゴジキの巨人軍解体新書」や「データで読む高校野球 2022」、「ゴジキの新・野球論」を過去に連載。週刊プレイボーイやスポーツ報知、女性セブンなどメディアの取材も多数。Yahoo!ニュース公式コメンテーターにも選出。日刊SPA!にて寄稿に携わる。Instagram:godziki_55 X:godziki_55 TikTok:@godziki_55 Facebook:godziki55

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