更新日:2011年08月26日 11:31
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「嘆き、悲しみ、無力感は脳内で情報加工された妄想にすぎない」僧侶・小池龍之介

― 有名人が告白 震災で変わった「私の生き方」 【10】 ― 阪神大震災、オウム事件、9・11――。これらの出来事と今回の東日本大震災の一番の違いは“当事者感覚”の有無だろう。東京から明かりが消え、余震が続いたなか、人々は原発の情報収集に奔走したからだ。そんな状況を経て、各界著名人の価値観はどう変わったのか? ◆自らの死をイメージし、刻み込むことが最大の学習となる 小池龍之介 こいけ・りゅうのすけ(月読寺住職)
小池龍之介

78年生まれ。月読寺(東京・世田谷)住職。『ブッダにならう苦しまない練習』(小学館)、『坊主失格』(扶桑社)など著書多数

 私はあの日、実家である山口県のお寺におりました。福島原発の危険性がもっとも高まっていた時期は山口にとどまり、東京の月読寺のスタッフにも希望した方をこちらに呼び寄せもいたしました。  震災直後は、日本中が悲しみや不安、憤りといったネガティブな感情で覆いつくされていました。  しかしながら申し上げておきたいのは、生じた事実はただひとつ「災害が発生した」ということだけ。それに対して生じている、嘆きや悲しみ、無力感といった精神的ダメージは脳内で現実を原料に情報加工された妄想にすぎません。それに翻弄されず、ただそこにある事実を事実として、客観的に受け止めることが必要なのです。  冷たすぎる!とおっしゃる方もいるかもしれません。しかしながら、それは薄情であれということではありません。「慈悲」の心にも冷静さ=「捨」が必要です。心が混乱したままですと、善意も押し付けになってしまったり、自分とは異なる考えの方に怒りが生じたりもいたします。その意味では、今回の出来事を、「慈悲」という感情を育てる出発点とすることもできるのではないでしょうか。  そして、もうひとつ申し上げるならば、この震災で自らの死をイメージし、刻み込むことは最大の学習になるはずです。死をイメージするというのは、死を渇望することでもなく、生を軽んじることでもありません。「自分も確かに死ぬ」、それを確実な事実として腑に落としていくということ。容易ではありませんが、その事実をわずかでも理解できれば、快・不快に巻き込まれないニュートラルな心を育てることができます。  そしてそれは、強迫観念的に快感をひたすらに追い求め、不快感を排除する、過剰なまでに経済繁栄を重視してきた、この文明のあり方を見直す転機にもなるように思われるのです。
覚悟の決め方 僧侶が伝える15の智慧

地震後の“空虚”への処方箋

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