雑学

レスラー・高山善廣を生んだ「運命の再会」とは?

高山善廣オフィシャルブログ

高山善廣オフィシャルブログより

 昭和のプロレス少年、昭和のテレビっ子の物語である。サクセスストーリーといってしまえばたしかにサクセスストーリーなのかもしれないけれど、カッコ悪い場面もたくさんあったし、挫折も味わったし、命にかかわるような病気もした。

 高山善廣(たかやま・よしひろ)は昭和生まれの“平成のプロレスラー”である。1966年(昭和41年)、東京都墨田区生まれ。中学を卒業するときに父方の祖父の土地があった神奈川県藤沢市鵠沼に引っ越して、15歳から25歳までを海のすぐそばで過ごした。

 実家が錦糸町の駅前で薬局を営んでいて、いわゆるネオン街で幼少期をおくり、10代のまんなかから湘南の男の子になった。錦糸町もホームタウンだし、鵠沼もまたホームタウンだ。

「商店街のおじさん、おばさん、夜になると出てくる水商売のおねえさんたち、そのへんを歩いている小指のないヤバイおっさんたちをみて育った。錦糸町もワイルドだし、湘南もワイルド。ぼくはふたつのちがう文化のなかで育ったんです」と高山はみずからのルーツをふり返る。

 いちばん最初に好きになったプロレスラーはアントニオ猪木で、なんとなく漠然と眺めていたのは毎週土曜の夕方の5時半から放送していた『全日本プロレス中継』(日本テレビ)だった。

 ちょうど天龍源一郎がアメリカ武者修行から凱旋帰国したころで、相撲時代のまわしと同じ色の紫のタイツをはいた天龍がダイビング・エルボードロップをやっていたのを目撃して衝撃を受けた。

 それよりももっとまえ、まだほんの子どものころに観たアニメの『タイガーマスク』ではジャイアント馬場とアントニオ猪木がいっしょに闘っていたのをおぼえていたから「この5時半のプロレスにはなんで猪木さんが出ていないのだろう」と不思議に思っていたが、毎週金曜の夜は『太陽にほえろ!』を観ていたから、“金曜夜8時のプロレス”(テレビ朝日の『ワールドプロレスリング』)の洗礼は受けていない。

 記憶に残っているいちばん古い猪木の試合映像は猪木対モハメド・アリの格闘技世界一決定戦だ(1976年6月26日=東京・日本武道館)。土曜の昼すぎ、高山が学校から帰るとなぜか父親が――店番を母親に押しつけて――家にいて「世紀の一戦がはじまる!」といって気合を入れてテレビのまえに座っていた。

 小学4年生だった高山にとってそれはあまりにも退屈な試合だったので「つまんないから外に遊びにいった」。

「このあいだ(DVDを)観ましたけど、いま観るとものすごくおもしろいんですけどね」

 アブドーラ・ザ・ブッチャー、ドリーとテリーのザ・ファンクス、スタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディ……。あこがれたのはもっぱらガイジン・レスラーだった。

「あとから考えたことなんですけど、ウルトラマンが闘った怪獣、仮面ライダーに出てきた怪人が好きだったから、それがあるときからプロレスラーに変わったんだと思うんです」

 子どものころから体が大きく、中学時代の3年間で30センチも背が伸びて、高校に入学するときは190センチの長身になっていた。中学3年生の時点ですでにプロレスラーになりたいと思っていたが、運動万能で体育の成績はいつも“5”というタイプだったかというとそうではなくて、「もともと虚弱児で、運動もろくにできないし、自信がなかったので」そのままフツーに高校を受験した。

 東海大相模高ではラグビー部に在籍したが、練習中のケガ(肩の脱臼、腰骨のはく離骨折)で2回、大きな手術を受けて学校を“長期欠場”した。高校時代はクラスでは目立たないほうで、授業中は寝てばかりいた。

 大学(東海大文学部文明学科東アジア課程)ではアメリカン・フットボール部に入ったが、アメフトという競技にどうしてもなじめなくて、1年でやめてしまった。

 20歳のときに大学に籍を残したままUWF――当時は新日本プロレスとの業務提携時代――に入門したが、このときは1カ月半で逃げ出した。

 公式プロフィルの“職歴”に記載されているライフガードのアルバイトをはじめたのはこのあとだった。いつものように鵠沼海岸に遊びにいったら、ライフガードの集団がトレーニングをしていた。

「浜辺をダッシュしたり、飛び込みの練習とかしてた。日焼けができて、お給料ももらえて、なんかおもしろそうだなと思った。それで最初はアルバイドで入って、ひと夏、雑用係みたいなことをやって、秋になってから赤十字の講習を受けにいった。この仕事はサラリーマン時代も含めて3シーズンくらいやりました」

 大学は1年留年して5年で卒業。ライフガードとして藤沢市の準公務員の試験を受ける準備をしていた時期もあったが、「親から就職しろとずっといわれていたので」フツーの会社に入社して、フツーのサラリーマンになった。

 23歳でスーツとネクタイの営業マンになったあとも、“海の男”高山は夏のあいだだけはライフガードの仕事もつづけることにした。「これ、ずっとやるのイヤだなあ」と思いながらのサラリーマン生活は1年ちょっとだった。

 ある日、ライフガード仲間といっしょに江ノ島海岸をパトロールしていたら、遠くから「おーい、タカヤマーっ!」と自分の名を呼ぶ声が聞こえた。だれだろうと思ってふり返ってみたら、UWFの宮戸優光(現UWFスネークピット代表)がにっこり笑いながら手を振っていた。(つづく)

斎藤文彦

斎藤文彦

文責/斎藤文彦 イラスト/おはつ

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― 「フミ斎藤のプロレス講座」第32回 ―





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