“Mr.プロレス”天龍とビル・ロビンソンの意外な接点――「フミ斎藤のプロレス講座」第29回
―[フミ斎藤のプロレス講座]―
“ミスター・プロレス”天龍源一郎がことしの11月13日に39年間の現役選手生活に終止符を打ち、プロレスを“廃業”する。
引退ではなくあえて“廃業”という単語を使っているのは、指導者としてこのままプロレス界に残るわけではなく、またテレビ中継の解説者や評論家になるつもりもないためだという。「引退ではなく廃業です」という感覚は、プロレスラーのそれではなくて、どちらかといえば天龍のなかにいまも生きつづける相撲社会の通念なのだろう。
1950年(昭和25年)2月2日、福井県勝山市生まれ。本名・嶋田源一郎。1963年(昭和38年)、大相撲・二所ノ関部屋に入門し、1964年(昭和39年)1月、天龍のしこ名で初土俵。相撲時代の最高位は幕内・前頭筆頭だった。
1976年(昭和51年)10月、大相撲を廃業し、全日本プロレス入団。マゲを結ったままアメリカ武者修行に出発し、同年11月13日、テキサス州ヘレフォードで初マットを踏んだ(対戦相手はテッド・デビアス)。
ことしの11月13日は、天龍がプロレスラーとしてデビューしてからちょうど“40年め”の節目の日にあたる。大相撲に在籍していたのは13歳から26歳まで――少年期から青年期まで――の13年間で、それからさらに39年間、65歳になる現在まで現役一筋でプロレスの世界に生きてきた。
“ミスター・プロレス”というニックネームは、天龍がジャイアント馬場とアントニオ猪木のふたりから完ぺきなフォール勝ちをスコアしたただひとりの日本人レスラーであることに由来している。
馬場から3カウントのフォールを奪ったのは1989年(平成元年)11月29日、札幌でおこなわれた『世界最強タッグ』公式リーグ戦。馬場&ジャンボ鶴田の“師弟コンビ”と対戦した天龍(タッグパートナーはスタン・ハンセン)は、得意技のパワーボムからのエビ固めで当時51歳の馬場から――タッグマッチながら――初めてのフォール勝ちを収めた。
猪木からピンフォールを奪ったのは1994年(平成6年)1月4日、新日本プロレスの東京ドーム大会。馬場からフォール勝ちをスコアしてから5年後、こんどはシングルマッチで猪木からピンフォールを奪った。このとき猪木(当時は参議院議員)は50歳で、天龍は43歳。この試合も“決まり手”はパワーボムからのエビ固めだった。
元幕内力士から“大型ルーキー”としてプロレス転向を果たした天龍がこれまでずっと順風満帆に“プロレス大河ドラマ”を演じてきたのかというと、じつはそうではない。
宿命のライバルだったジャンボ鶴田が早熟のいわゆる“天才肌”だったとすると、天龍は不器用な“大器晩成型”で、鶴田がデビューと同時にメインイベンターの“番付”を手に入れたのに対し、天龍はデビューからの数年間はのんびりと日本とアメリカを行ったり来たりしながら、いまでいうところの“自分探し”のようなレスラー生活を送っていた。
やや蛇足になるが、いまでこそ天龍の代名詞といえば“天龍チョップ”と呼ばれる豪快なバックハンド・チョップだが、ルーキー時代の“天龍チョップ”は相撲スタイルの“突っぱり”で、まだ20代だった天龍が“プロレスの技”として“突っぱり、突っぱり”を使いはじめると観客の失笑を買うことがあった。
そんな天龍が一夜にして“プロレス開眼”した――。いまから34年まえのある夏の日のできごとだ。
開眼(かいげん)とは、仏教の真理を悟ること。また、一般に芸道などで悟りを開くこと。技芸の神髄を悟り、極地をきわめること。わかりやすくいえば、天龍はこの試合によってプロレスの真理、神髄を悟り、プロレス道における悟りを開いたといわれている。
1981年(昭和56年)7月30日、『サマーアクション・シリーズ』最終戦・後楽園ホール大会。天龍は“人間風車”ビル・ロビンソンとタッグチームを結成し、馬場&鶴田が保持するインターナショナル・タッグ王座に挑戦した。
『サマーアクション・シリーズ』(81年7月3日~7月30日=全22戦)の参加外国人選手はロビンソン、“ケンカ番長”ディック・スレーター、“流血大王”キラー・トーア・カマタ、グレート・マーシャルボーグ、ビクター・リベラ、ラリー・ズビスコ、ルーファス・ジョーンズ、ボビー・ヒーナン、そして“狂虎”タイガー・ジェット・シンの全9選手。同シリーズ開幕戦の7・3後楽園ホール大会にシンがいきなり“乱入”し、新日本プロレスから全日本プロレスへの電撃移籍が明らかになった。
この年の5月、全日本プロレスの看板外国人スターだったアブドーラ・ザ・ブッチャーが新日本プロレスに移籍した。全日本がシンと上田馬之助を“獲得”すると、こんどは新日本がタイガー戸口、ディック・マードックの2選手を引き抜き返した。
両団体によるドロ沼の“引き抜き合戦”は同年12月、スタン・ハンセンが『世界最強タッグ』最終戦に“乱入”し、翌82年(昭和57年)1月に全日本と正式契約するといったん小休止したが、その後もダイナマイト・キッド&デイビーボーイ・スミスが1984年(昭和59年)11月に、長州力をリーダーとするジャパン・プロレスが同年12月にそれぞれ新日本を離脱し全日本と契約。1985年(昭和60年)、“超獣”ブルーザー・ブロディが全日本から新日本に電撃移籍するまでつづいた。
先述の『サマーアクション・シリーズ』最終戦のメインイベントにラインナップされたインタータッグ選手権は当初、ロビンソン&スレーターが挑戦者チームとなるはずだったが、来日前にアメリカ国内で起こした交通事故の後遺症(頭部の負傷)でスレーターがシリーズ途中で帰国したため、天龍が急きょ“代打”として起用された。
それは単なる偶然だったのか、あるいは“歴史の必然”だったのか、ロビンソンと天龍はその日、まるでおそろいのようなパープルのリング・ジャケットを身につけて西側の花道を歩いてきた。
イギリス人のロビンソンにとってロイヤル・カラーのパープルは“王室”のイメージで、天龍の紫色のショートタイツは大相撲時代のまわしの色のなごりだったが、まったく異なるルーツを持つはずのふたつのバージョンのパープルのショートタイツは、リングの上ではまったく同じ色にみえた。
60分3本勝負で争われたタイトルマッチは、14分57秒、ロビンソンが馬場をフォールして1本先取。1本めと2本めのインターバルのあいだにロビンソンが天龍に向かって「ワン・モア・トゥ・ゴー!(あと1本だ!)」と話しかけると、天龍も英語でなにかをロビンソンの耳元でささやいた。
2本めは5分11秒、馬場がロビンソンからフォール勝ちをスコアして1-1のイーブン。決勝の3本めは6分5秒、場外カウントアウトで馬場組がロビンソン組を下して王座防衛に成功した。
天龍はこの試合で初めて延髄切り、まんじ固めといった――それまで全日本プロレスのリングではタブー視されていた――“猪木スタイル”の大技にトライした。それはやや不格好で無茶苦茶ではあるけれど、いきなりスイッチが入ったような、どこかふっきれたようなプロレスだった。師匠の馬場、ライバルの鶴田とは反対側のコーナーに立ったことで、天龍は自由な発想でプロレスを楽しんだ。
その日、満員御礼とはならなかった後楽園ホールに足を運んだ1000人そこそこのライブの観客は、天龍のなかでなにかが変わったことを確信した。
このとき天龍はキャリア5年の31歳で、年下の先輩である鶴田はキャリア8年の30歳。ロビンソンと馬場はふたりとも43歳で、全日本プロレスの常連だったロビンソンが日本のリングでタイトルマッチをおこなったのはこの試合が最後だった。
天龍が“ミスター・プロレス”の基礎となる“風雲昇り龍”“革命龍”としての道を歩みはじめた日、天龍のすぐよこにはビル・ロビンソンが立っていた。ロビンソンは意外なところで日本のプロレス史の大切な1ページにかかわっていたのである。
文責/斎藤文彦 イラスト/おはつ
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