雑学

60年前に発表!ロラン・バルトの『レッスルする世界』はプロレス論の古典

 フランスの哲学者ロラン・バルト(1915-1980)の評論『レッスルする世界』はプロレス論の古典である。バルトの著作『神話作用Mythologies』に収録されている評論の数かずは1954年から1956年にかけて書かれたもので、この『レッスルする世界』はフランスの雑誌『エスプリEsprit』に発表されたエッセーの再録だ。

60年前に発表!ロラン・バルトの『レッスルする世界』はプロレス論の古典 バルトが論じるところの“神話”とは、天地創造や人類の誕生や英雄の説話ではなくて、根拠のないものが比喩的に、しかし絶対的に信じられている現代の事象を指している。

 バルトが論じたのは1950年代のフランスのプロレスについてで、バルトはまずプロレスを「見かけはすべての文学から最も遠い事実」と位置づけた。

 ここでは『神話作用』の翻訳版(1967年=昭和42年初版)に収められている『レッスルする世界』(篠沢秀夫訳)を当時よりも現代的な日本語にリライトし、そのあらましを紹介する。

「プロレスのよさは度を超えた《見せ物》であることだ。プロレスは下劣なスポーツだと信じている人たちがいる。その人びとはプロレスが八百長スポーツであると――そうだとしたらその下劣さが失われてしまうのに――憤慨するが、観客にとっては闘いが八百長かどうかを知ることなどまったくどうでもいいのだ。そして、彼らは正しい。観客はこの《見世物》の第一の美点に身をゆだねる。それは動機も結果もすべて廃絶することにある。大事なのは観客が信じるものではなく、観客が観るものなのだ」

「プロレスの試合で意味を持つのは各瞬間で、持続ではない。観客はある種の情熱の瞬間的映像を期待し、プロレスは意味の読みとりを要求する」

 バルトは、いちばんはじめに「プロレスのよさは……」と語ることでプロレスに対する基本的な好意の姿勢を示している。

 この評論を読み解くためのキーワードは《見せ物》《身ぶり》《げす野郎》という3つの単語だろう。《見せ物》は原書(フランス語)と英語版ではともにスペクタクルspectacle、《身ぶり》はフランス語版がジェステgesteまたはgestesで、英語版はジェスチャーgestureだ。《げす野郎》はフランス語版ではサローsalaud、英語版ではバスタードbastardという単語が使われている。

 バスタードのもともとの意味は非嫡出子(ひちゃくしゅつし)だが、アメリカ英語のスラングでは「無礼なやつ」「イヤなやつと」いった意味がある。現代のプロレス用語(またはカタカナ語)でいえば、もちろんヒールheel=悪役のことだ。

ロラン・バルト『神話作用』

ロラン・バルト『神話作用』

「プロレスは苦痛を恥とせず、泣くことができ、涙を流すことが好きだ。プロレスのどの《身ぶり》もその場で理解しなければならないものであるから、全面的な明晰(めいせき)さを備えている。レスラーたちがリングに上がるやいなや、観客にはそれぞれのレスラーの役割の明白な意味が示され、それぞれの肉体的タイプがレスラーたちに与えられた仕事を過度に表現する」

「観客が求めるのは情熱のイメージであって、情熱それ自体ではない。プロレスにおいては、劇場におけるそれと同様、真実という問題はない。期待されているのは、通常は秘密である精神的状況のわかりやすい形象化である」

「プロレスの各瞬間は、ひとつの原因とそこから予想される結果を即座に解明する数学のようである。プロレスの愛好者たちにとっては、精神的メカニズムがこれほど完全に働くのを見ることへの一種の知的快楽がある。観客に与えられるものは苦悩、敗北、そして正義の偉大な《見せ物》である」

「レスラーの《身ぶり》はいかなる物語、いかなる背景も必要としない。(中略)明白な原因なしに現れる苦痛は理解されない。じっさいの(観客にみえない)隠れた残酷な動作はプロレスの不文律を踏みにじり、狂気の、または無駄な動作としていかなる社会学的な効果も持たない。すべての人は、レスラーが苦しんでいるということだけでなく、とりわけ、なぜ彼が苦しんでいるかを理解することが必要だからだ」

「プロレスは拷問の外面的なイメージを与える唯一のスポーツである。しかし、ここでなお、そのイメージはプレーの場においてだけであり、観客はレスラーの真の苦しみを願いはせず、ひたすら肖像画の完全さを味わうのみだ。プロレスはサディスティックな《見せ物》だというのは本当ではない。ただわかりやすい《見せ物》なのだ」

 バルトは「プロレスは人間の苦悩を悲劇のマスクの誇張をもって提示する」と分析している。「通常は秘密である精神的状況」とは“うぬぼれ”“正当な権利”“洗練された残酷さ”“仕返しの感覚”などで、だからこそ、はめを外した世界の扉をこじ開ける行為――レスラーがほんのわずかだけルールを踏み外して反則を犯す瞬間――は観客を熱狂させ、興奮させ、「彼らはそれをちょうどいいロマンチックな神話のように楽しむ」のだという。

 プロレスの本来の意味とは「修辞学的誇張――情熱の強調、絶頂のくり返し、(観客を含めた)レスラーたちのやりとりの激昂、異様な混乱への到達、最後の大騒ぎ――である。規則も形式の法則もレフェリーの制止もリングの限界も廃止され、客席にはみ出し、レスラー、セコンド、そして観客をもごちゃまぜに巻き込む、一種のはめを外した大狂乱である」とバルトは結論づける。

「プロレスの試合では、いかなる象徴、いかなる比喩もなく、すべてが余すところなく与えられる。《身ぶり》はすべての余分な意味を切り払い、観客に対して儀礼的に、自然と同じようにきっちりとした、純粋で充実した意味を提供する」

「リングの上で、その自発的な下劣さのどん底で、このドラマの主人公、または《げす野郎》――つまり形而上学的な表象の一種にまで拡大された男たち――は神がみである。なぜならば、彼らは何秒かのあいだ、自然を開くカギであり、善を悪からへだて、ついに明らかとなった正義というものの様相をあらわにする《身ぶり》だからである」

「プロレスがレスラーたちの《身ぶり》によって示すものは、事物の理想的な明白さであり、人間であることの幸福感」である。

 バルトが語っているのはいまから約60年まえのフランスのプロレスについてだが、その観客論は現代のプロレスにもちゃんとあてはまる。

 WWEの世界観をイメージしてもいいし、アントニオ猪木の“燃える闘魂”をイメージしてもいい。ひょっとしたら、大仁田厚のプロレスに《見世物》《身ぶり》《げす野郎》というキーワードをあてはめてみるとひじょうにわかりやすいかもしれない。

 プロレスはぼくたちを幸せにできるのである――。

斎藤文彦

斎藤文彦

文/斎藤文彦 イラスト/おはつ

※「フミ斎藤のプロレス講座」第41回

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