「NOと言えるレスラー」ブルーザー・ブロディの商品価値
―[フミ斎藤のプロレス講座]―
ひょっとしたら、いまどきのプロレスファンはブルーザー・ブロディという偉大なプロレスラーのことを知らないかもしれない。
身長6フィート5インチ(196センチ)、体重320ポンド(145キロ)。ニックネームは“超獣”。完全無欠の必殺技は、助走つきのキングコング・ニードロップ。80年代に一世を風靡したスーパースターで、日本では全日本プロレス、新日本プロレスの2大メジャー団体を往復した特別な存在だった。
あくまでも“if”のおはなしではあるが、もしもブロディが生きていたとしたらもうすぐ69歳の誕生日を迎えていた。
ブルーザー・ブロディ、あるいはキングコング・ブロディは1946年6月18日、ペンシルベニア州ピッツバーグ生まれ。本名はフランク・ドナルド・グディッシュ。
同い年のアメリカ人は、映画監督ではスティーブン・スピルバーグとデビッド・リンチ、ハリウッド俳優ではシルベスター・スタローン、トミー・リー・ジョーンズ、ダイアン・キートンらがいる。
昭和21年生まれの日本人には吉田拓郎、岡林信康、北山修、宇崎竜童、杉田二郎らフォーク・ロック世代の大物ミュージシャンがたくさんいて、芸能人・俳優には堺正章、倍賞美津子、大原麗子、藤岡弘、ら、演歌歌手には美川憲一、中条きよしなど大物がいる。アメリカでは戦後のベビーブーマー世代、日本式にいえばいわゆる“団塊の世代”である。
ブロディはアイオワ州立大、ドリーとテリーのザ・ファンクス、スタン・ハンセンらが在籍したウェスト・テキサス州立大の2校でフットボールで活躍し、1968年にNFLワシントン・レッドスキンズに入団。ヒザのケガで同チームを2シーズンで解雇されたあとはCFL、独立リーグでプレー。1973年にプロレスに転向した。
プロレスラーとしての現役生活は1973年から1988年までの約16年間。プロ・フットボールを長くプレーしたため、デビューは27歳とかなり遅かった。
デビュー当時のリングネームはフランク“ザ・ハンマー”グディッシュで、ルーキーとしてオクラホマ―ルイジアナ―ミシシッピのNWAトライステーツ地区をサーキット中、ウェスト・テキサス大フットボール部でチームメートだったハンセンと再会してタッグチームを結成。約1年間、同地区認定USタッグ王座を保持した。ハンセンは1949年生まれだから、年齢ではブロディのほうが3歳上だった。
ハンセンとのタッグチームをいったん解散後、ブロディは“殺人鬼”キラー・コワルスキーの紹介でWWE(当時はWWWF)と契約。ここでビンス・マクマホン・シニアからブルーザー・フランク・ブロディという新リングネームを与えられた。ブロディのキャラクターをプロデュースしたのがビンス・マクマホンの父マクマホン・シニアだったという事実は、いまになってみるとちょっと不思議な感じがする。



斎藤文彦
―[フミ斎藤のプロレス講座]―
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