雑学

ロディ・パイパーのニックネームはUFCの女王に引き継がれた

ロディ・パイパー「フミ斎藤のプロレス講座」第50回は、急逝したロディ・パイパーのメモリアル・コラム(後編)。WWEの祭典“レッスルマニア”の歴史は、パイパーとシンディ・ローパーとミスターTの異次元遭遇からはじまった――。

 “ラウディ”ロディ・パイパーは、アメリカではハルク・ホーガンと並び、過去30年間、もっとも一般的知名度の高いスーパースターだった。

 パイパーほど日本とアメリカでその評価が異なるプロレスラーはめずらしいだろう。これは、パイパーが現役時代に通算3回しか来日していないこと関係している。

 1977年(昭和52年)9月の『闘魂シリーズ』、1978年(昭和53年)1月の『ビッグ・ファイト・シリーズ』の2度、新日本プロレスのリングに上がったときのパイパーは、まだ23歳の“若手”だった。

 3度目の来日――この時点でのパイパーのホームリングはノースカロライナのNWAクロケット・プロ――は1983年(昭和58年)5月、全日本プロレスの『グランド・チャンピオン・カーニバルⅡ』シリーズ後半戦。このときは“ケンカ番長”ディック・スレーターとのコンビでジャイアント馬場&ジャンボ鶴田が保持していたインターナショナル・タッグ王座に挑戦した(6月3日=旭川市総合体育館)。

 パイパーが、ビンス・マクマホンの全米マーケット制圧計画“1984体制”のキーパーソンのひとりとして、WWEと専属契約を交わしたのは1983年12月のことだった。

 ビンスは当初、パイパーを選手兼マネジャーというポジションで起用するつもりだったというが、ある試合をきっかけにこのプランは軌道修正された。

 パイパーの運命――というよりも、いまになってみればWWE史の1ページ――を変えた一戦とは、ニューヨークのマディソン・スクウェア・ガーデンでおこなわれたパイパー&デビッド・シュルツ対アンドレ・ザ・ジャイアント&“スーパーフライ”ジミー・スヌーカのタッグマッチだった(1984年3月25日)。

 この4選手のなかでは実力的に一枚落ちるとみられていたパイパーは、独特のモーションから放つボクシング・スタイルの左右のパンチ攻撃、目つぶし、顔面かきむしり、急所攻撃といった古典的な反則技のオンパレードで大巨人アンドレをほんろう。

 身長223センチ、体重450ポンドのアンドレの巨体をおもしろいように立たせたり寝かせたりするパイパーの大立ち回りは、目の肥えたガーデンの観客を驚がくさせた。じつはアンドレとパイパーはこのときが“初顔合わせ”ではなく、70年代後半にロサンゼルス、サンスランシスコの“名物”バトルロイヤルで何度も接触していて、おたがいがおたがいのリズムを熟知していた。

 この日のMSG定期戦は、WWE世界ヘビー級王者ホーガンが“不在”であったにもかかわらず2万6092人動員のソールドアウトとなり、ガーデンのすぐとなりのフェルト・フォーラムでのクローズド・サーキット上映はさらに4000人の有料入場者を集めた。

 やや蛇足になるが、同大会には新日本プロレスのシリーズ興行を“無断欠場”し、単身WWEのサーキットに合流していた前田日明も出場、ピエール・ラファーブレという無名の選手を下して新設WWF・UWFインターナショナル王座を獲得した。新日本、全日本につづく“第3団体”としてユニバーサル・プロレスリング=第一次UWFが動き出したのもこのころだった。

 パイパーとホーガンの初のシングルマッチ――じっさいにはこれ以前にも全米各地のハウスショーで数試合、実験的におこなわれた――が“本拠地ニューヨーク”で実現したのは、MTV特番として全米生中継された“ザ・ウォー・トゥ・セトル・ザ・スコア”(1985年2月18日=マディソン・スクウェア・ガーデン)。

 このときは、試合そのものはホーガンの反則勝ちに終わったが、パイパーはホーガンのセコンドについていたマネジャーの“キャプテン”ルー・アルバーノに暴行を加え、リングサイド最前列に座っていたアルバーノの友人のロック・シンガー、シンディ・ローパー――世界的な大ヒット“ウィー・アー・ザ・ワールド”のレコーディングからわずか1カ月後――にもちょっかいを出した。

 それまで悪党マネジャーとして活躍していたルー・アルバーノは、シンディ・ローパーのヒット曲“ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン”のミュージック・ビデオにローパーの父親役で出演して話題を集めた。ここからWWEとMTVが合体したロックン・レスリング路線がスタートした。

 ホーガンとパイパーの番外戦の大乱闘がつづくなか、観客席からホーガンの救援に飛び出してきたのが、映画『ロッキー3』に出演し、当時、人気TVドラマ『特攻野郎Aチーム』が大ブレイクしていたアクション俳優のミスターTだった。このワンシーンはMTV特番のクライマックスであったと同時に、記念すべき“レッスルマニア”第1回大会の予告編にもなっていた。

 “レッスルマニア”第1回大会(1985年3月31日)のメインイベントは、ホーガン&ミスターT対パイパー&“ミスター・ワンダフル”ポール・オーンドーフのタッグマッチで、最大の見せ場はパイパーとミスターTの殴り合いだった。試合はホーガンがオーンドーフをフォールしてジ・エンドとなったが、ここでもパイパーはほとんど“無傷”でリングを降りた。

ロディ・パイパーの主演映画『ゼイ・リブ』

ロディ・パイパーの主演映画『ゼイ・リブ』(1988年=ジョン・カーペンター監督)のポスター。89年に日本でも公開された。パイパーは、ライバルのホーガンよりもひと足早くアクション映画俳優の道を歩んだのだった。

 ミスターTの“相手”をすすんで買って出た理由について、パイパーは当時、米メディアのインタビューにこんなふうに答えている。
「彼(ミスターT)はあの試合は終われば、またハリウッドに戻って映画を撮るだろ。ハリウッドの仲間たちに、レスリングはフェイク(インチキ)だったといいふらすだろ。そうはいくか。オレはそんなことはさせない」

 パイパーが「ヤツをリングに上げちまえば、こっちのもの」とコメントしていたことを知ったミスターTは、“レッスルマニア”の当日になって試合のキャンセルを主張したとされる。ミスターTはミスターTで、『特攻野郎Aチーム』の“B・A・バラッカス軍曹”役として、守らなければならないタフ・ガイのイメージがあった。

 そして、試合は予定どおりおこなわれ、パイパーもミスターTもそれぞれのキャラクター・イメージを損なうことなく、プロフェッショナルとしてのコンセンサスのラインで闘い、“レッスルマニア”をプロレス史に残る歴史的な1日としたのだった。

 翌年の“レッスルマニア2”(1986年4月7日)はニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルスの3都市同時開催となり、ニューヨーク州ユニオンデールのナッソー・コロシアムではパイパー対ミスターTのボクシング・マッチがメインイベントにラインナップされた。この時点ではパイパーはまだポジション的にはヒールだったが、ライブの観客のほとんどは心情的にはパイパーを応援する側にまわっていた。

 パイパーとWWE、というよりもパイパーとビンス・マクマホンの関係がいつもうまくいっていたかというとそうではなくて、80年代後半から90年代前半にかけて両者は何度となく衝突―和解―衝突をくり返し、パイパー自身は引退―復帰―引退のドラマをリピートした。

 アメリカのプロレス・シーンがWWEとWCWの2大メジャー時代、WWE“マンデーナイト・ロウ”とWCW“マンデー・ナイトロ”の“月曜TV戦争”に突入すると、ホーガン、ランディ・サベージらと同様、パイパーも1996年にライバル団体WCWに移籍。

 WCWでリニューアルされたホーガンとのライバル物語では、シングルマッチは2回だけおこなわれ、初戦はパイパーがスリーパーホールドで“失神勝ち”し、再戦はホーガンがフォール勝ち。ただし、WCWのリングで起きたことは――パイパー史のなかでは――なかったことになっている。

 WCW崩壊後、パイパーはTNAを経由し、2005年の“ホール・オブ・フェーム”殿堂入りセレモニーで古巣WWEに復帰。しかし、翌2006年にホジキンリンパ腫(悪性リンパ腫)を発症し、リハビリのため何度めかの引退生活に入った。

 WWEでの最後の大舞台は、“レッスルマニア25”(2009年4月5日=テキサス州ヒューストン、リライアント・スタジアム)でのクリス・ジェリコとの“ハンディキャップ・イリミネーション・マッチ”だった。

 パイパーはかつてのライバルであり親友のリック・フレアーをセコンドにつけ、ジミー・スヌーカ、リッキー・スティムボートとともに世代のちがうWWEスーパースター、ジェリコとのシングルマッチを楽しんだ。

 まるで、ある日、突然“電池”が切れて動かなくなってしまったような、あまりにも唐突すぎる死だった。2015年7月30日未明、パイパーはカリフォルニアのハリウッドにある自宅のベッドで眠ったまま天国に旅立っていった。享年61。

 “ラウディ”というニックネームは、いまを時めく“UFCの女王”ロンダ・ラウジーに引き継がれた。プロレスファンで、パイパーの大ファンのラウジーは、“ラウディ”というニックネームをどうしても名乗りたくて、共通の恩師である“ジュードー”ジーン・ラベールにパイパー本人とのコンタクトを頼み込んだ。

 ラウジーからの申し出に、パイパーは「“ラウディ”ロンダ・ラウジー? いいね、気に入ったよ」と応えたという。いまから2年ほどまえのことだ。いかにもパイパーらしい、ファンタジーとリアリティーがごちゃ混ぜにになった、それでいて胸がキュンとなるようなエピソードは、プロレスとMMAの境界線のない物語として、ずっと語り継がれていくだろう。God Bless“Rowdy”Roddy Piper――.

斎藤文彦

斎藤文彦

文/斎藤文彦 イラスト/おはつ

※「フミ斎藤のプロレス講座」第50回

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