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追悼・ロディ・パイパー 彼は“試合結果”にこだわるプロレスラーだった

ロディ・パイパー

ロディ・パイパー

「フミ斎藤のプロレス講座」第49回は、さる7月31日(現地時間)に急逝したロディ・パイパーのメモリアル・コラム(前編)。パイパーは、アメリカでは過去30年間、ハルク・ホーガンと並びもっとも一般的知名度の高いスーパースターだった。  正式なリングネームは“ラウディ”ロディ・パイパー。“ラウディRowdy”は乱暴な、ケンカっぱやい、騒々しい、がさつなといった意味の形容詞で、パイパーというラストネームの由来は、スコットランドの民族楽器のバグパイプ。  スコットランドのグラスゴー出身、ゲール貴族の末えいというキャラクターで、スコットランドの民族衣装キルトがトレードマークだった。  パイパーは、オールドファッションな“大悪役”の王道――ファンタジーとリアリティー、フィクションとノンフィクションの境界線のあいまいなエリア――を歩んだ。ひょっとしたら、40年以上もロディ・パイパーというキャラクターを演じつづけたせいで、パイパー自身にもいったいなにが現実で、なにが非現実なのかわからなくなっていたのかもしれない。  プロレスラーやプロモーターではない人間、とくにプロレスファンがレスリング・ビジネスの隠語を使うことを嫌い、マスメディアのインタビュー取材では“ベビーフェース”“ヒール”といった業界用語はいっさい使わず、前者には“グッド・ガイ”または“クリーン”、後者には“バッド・ガイ”または“ラフ”という一般的な単語を用いることで対応し、試合は“マッチ”ではなく“ファイト”と表現した。  80年代、90年代にWWEで活躍したホーガンのライバルたち――アンドレ・ザ・ジャイアント、“マッチョマン”ランディ・サベージ、“ミリオンダラー・マン”テッド・デビアスからアルティメット・ウォリアー、リック・フレアーまで――とパイパーの決定的なちがいは、パイパーがただのいちどもホーガンにフォール負けを許さなかったことだ。  それもまたオールドファッションなヒールの哲学ということになるのかもしれないが、パイパーは“試合結果”にひじょうにこだわるレスラーだった。スポーツ・エンターテインメントとカテゴライズされるプロレスでは試合における“勝ち”と“負け”に演出がほどこされているといわれているが、パイパーは、それがスポーツであっても、エンターテインメントであっても、あるいはスポーツ・エンターテイメントであるからこそ、むしろ“勝ち”と“負け”はプロレスラーの番付を決定する絶対的な価値基準ととらえていた。
ロディ・パイパー

ロサンゼルス地区で活躍していた1977年ごろのパブリシティ写真。肩にかけているの はNWA世界ライトヘビー級王座のチャンピオンベルト

 1954年4月17日、カナダ・サスカッチュワン州サスカトゥーン生まれ。本名ロドリック・ジョージ・トゥームス。生まれた年についてはこれまで“1950年”“1952年”“1954年”の3つの説があったが、どうやら正確なデータは1954年。トシをサバ読むというと、ふつうはプロフィル上の年齢をじっさいの年齢よりも若くするケースがほとんどだが、パイパーの場合は、かなり長いあいだ年齢を3、4歳ほど上に“脚色”していた。 「オレは15歳からプロレスをやっている」「6000試合以上、闘ってきた」という有名なパイパー語録があるが、このあたりのコメントはリアリティーとファンタジーとがごちゃ混ぜになっているとみていい。  父親がスコットランド人で、母親がアイルランド人というストーリーは現実かどうかはわからない。少年時代にバグパイプの演奏を学んだのはほんとうで、警官だったという父親とうまくいかず、ナイフを教室に持ち込んだことでハイスクールを退学処分となり、10代で“家出少年”になったのはおそらく事実だろう。  それが15歳のときであったか、17歳のときであったかはさだかではないが、パイパーはマニトバ州ウィニペグでトニー・カンデーロというプロモーターと出逢い、カンデーロの経営するジムに寝泊まりしながらレスリングとボクシングを習った。カンデーロのジムではジョージ・ゴーディエンコ、ハーキュリース・コーテッズ(ヘラクレス・コーテツというカタカナ表記が用いられる場合もある)、マッドドッグ・バションら伝説のレスラーたちからプロレスの手ほどきを受けたとされる。  プロレスラーとしてデビューしたのは、パイパーによれば“15歳”のときで、ウィニペグでラリー・ヘニング(“ミスター・パーフェクト”カート・ヘニングの父親で、現在、WWEに在籍するカーティス・アクセルの祖父)と試合をして「13秒で負けた」という。正確な日時が不明だが、おそらく1973年ごろ――19歳のとき――のことだろう。  ビザを取得せずにアメリカに入国したというパイパーはその後、AWAエリア、カンザス(NWAセントラルステーツ)、テキサス州ヒューストン、ダラスなどを放浪し、1975年にレッド・バスチェンのブッキングでマイク・ラベールのカンパニー(ロサンゼルス)に送り込まれた。  オリンピック・オーデトリアムを舞台としたチャボ・ゲレロとの定番カードは西海岸エリアの大ヒット商品となり、チャボとの因縁ドラマはチャボの父ゴリー・ゲレロ、マンドー、ヘクターらチャボの弟たちも巻き込、約3年間つづいた。スコットランドの民族衣装キルトをはき、パグパイプを演奏するパイパーの写真が日本のプロレス雑誌に初めて紹介されたのもこのころだった。  パイパーは70年代後半はロサンゼルス、サンフランシスコ(ロイ・シャイアー派)、オレゴン(ドン・オーエン派)の太平洋沿岸エリアをホームリングに活躍。1977年(昭和52年)10月、新日本プロレスの『闘魂シリーズ』に初来日。翌77年(昭和53年)1月にも新日本の『ビッグ・ファイト・シリーズ』に再来日し、このときは白マスク、白タイツのマスクド・カナディアンを名乗った。  WWEジュニアヘビー級王者時代の藤波辰爾ともオリンピック・オーデトリアムで2度対戦している(1978年1月28日、1979年1月11日)。  70年代の終わりから80年代前半にかけてはNWAミッドアトランティック地区(ジム・クロケット・プロモーション=ノースカロライナ州シャーロット)、NWAジョージア地区を長期サーキット。ノースカロライナ時代のライバルは、後年、親友となるリック・フレアーで、ジョージアではおしゃべりの才能を買われ、テレビ番組“ジョージア・チャンピオンシップ・レスリング”のカラー・コメンテーターもつとめた。  WWEと専属契約を交わしたのは1983年12月。ビンス・マクマホンは当初、全米マーケット制圧プロジェクト“1984体制”のキーパーソンのひとりとしてパイパーをレスラー兼マネジャーとして起用する計画だったが、ある試合をきっかけにこのプランは軌道修正された。  それはニューヨークのマディソン・スクウェア・ガーデンでおこなわれたパイパー&デビッド・シュルツ対アンドレ・ザ・ジャイアント&“スーパーフライ”ジミー・スヌーカのタッグマッチだった(1984年3月25日)。  WWEでは“おしゃべりキャラクター”としてのポジションが与えられ、この4選手のなかでは実力的にはワンランク下とみられていたパイパーは、独特なリズムのボクシング・スタイルのパンチ攻撃、目つぶし、かきむしり、急所攻撃といった古典的な反則技のオンパレードで大巨人アンドレをほんろう。一夜にしてアメリカでいちばん“ホットHot”なヒールに変身してしまったのだった――(つづく)。
斎藤文彦

斎藤文彦

文/斎藤文彦 イラスト/おはつ ※「フミ斎藤のプロレス講座」第49回 ※斎藤文彦さんへの質問メールは、こちら(https://nikkan-spa.jp/inquiry)に! 件名に「フミ斎藤のプロレス講座」と書いたうえで、お送りください。
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