更新日:2017年11月16日 18:57
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「私は神様ではない」“プロレスの神様”カール・ゴッチ名言集

カール・ゴッチ『フミ斎藤のプロレス講座・第47回』は、“プロレスの神様”カール・ゴッチ語録をお届けする。7月28日はゴッチさんの命日だ。  カール・ゴッチについて、いまさらあれこれ説明する必要はないだろう。ニックネームは“プロレスの神様”である。  1924年8月3日、ベルギーのアントワープ生まれ。本名はチャールズ・イスタスで、カールはチャールズの愛称。9歳のときに家族とともにドイツのハンブルグに移住。第二次世界大戦後の1948年、レスリングでロンドン・オリンピックに出場。  ドイツでプロ転向後、イングランド・ウィガンの“蛇の穴=スネークピット”ビリー・ライレー・ジムで再修行。その後、カナダ・モントリオールを経由し、1960年にアメリカに移住した。  2007年7月28日、フロリダ州タンパの病院で死去。死因は動脈瘤破裂。享年82。  初来日は1961年(昭和36年)の日本プロレスの『第3回ワールド大リーグ戦』で、当時のリングネームはカール・クラウザー。このときに“芸術品”ジャーマン・スープレックス・ホールドを日本のリングで初公開した。  力道山は、ゴッチさんの実力を「強けりゃいいってもんじゃねえ」と評したとされる。  ゴッチさんは3度めの来日となった1967年(昭和42年)11月から日本プロレスの要請で“ゴッチ教室”を開講。69年(昭和44年)5月まで東京に滞在し、日本人選手の専属コーチとなった。  ゴッチさんとアントニオ猪木が運命的な出逢いを果たしたのがこの時代で、ゴッチさんはまだ20代だった猪木にジャーマン・スープレックス・ホールドと卍固めを伝授した。  ゴッチさんが“神様”というニックネームで日本のプロレスファンに親しまれるようになったのは70年代半ばごろからで、新日本プロレスの発足以後、1972年(昭和47年)から74年(昭和49年)にかけてゴッチさんと猪木のシングルマッチが合計5回おこなわれ、戦績はゴッチさんの3勝2敗だった。  ゴッチさんが現役選手として新日本のリングに上がったのは5回だけで、その後はコーチ、セコンド、タイトルマッチの立会人として来日することが多かった。  フロリダ州オデッサのゴッチ家のガレージ道場では、70年代後半から80年代前半にかけて、若手時代の藤波辰爾、藤原喜明、遠征先のメキシコから“脱走”してきた初代タイガーマスク(佐山聡)、前田日明、前田のトレーニング・パートナーとして同行した高田延彦らが“神様”から直接の指導を受けた。  “プロレスの神様”というニックネームはあくまでも日本のプロレス・マスコミが命名したもので、ゴッチさん自身がみずから“ゴッド・オブ・レスリング”を名乗ったことはいちどもなかった。  以下は、ゴッチさんがじっさいに語ったコメントの数かずだ。 「わたしをゴッドと呼んでくれるな。わたしはろくな教育も受けていないただのクリップルド・オールド・マンcrippled old man(障害者の老人)だ」
若き頃のカール・ゴッチ

若き頃のカール・ゴッチ

 1984年(昭和59年)、前田、藤原、高田らゴッチ・チルドレンが第1次UWFに移籍すると、ゴッチさんは同団体の最高顧問に就任。UWFはプロレスの改革をめざし、従来のプロレスよりも格闘技色の強いレスリング・スタイルを模索した団体だった。 「実力が接近した(選手間の)闘いでは、相手の両肩を3秒間マットに押さえてフォールを取ることは本来、かなり困難な作業なんだ。ショー的要素をはぶいた試合では、どちらか先にサブミッション=関節技を決めたほうの勝ちだ。日本の重量級柔道でも、きれいに一本を取るのがむずかしいから襟元を取ってサブミッションを使うだろ。いかなる格闘技でも、もっとも恐ろしいのは関節技なのだ」 「レスリングを(観て)楽しむには、レスリングに関する十分な知識が必要だ。チェスのようなものだ。日本の将棋ともよく似ている。両腕、両脚、頭、そして心がひとつひとつのコマになってゲームを進めていくんだ。敵がこう来れば、自分はこう攻めるといったぐあいにね。レスリングはひじょうに頭を使うスポーツなんだ」 「正しいサブミッションを教えることができる人材がもういない。サブミッションについては、わたしがラスト・モヒカン=最後の生き残りであると断言できる。ここ20年、アメリカからは関節技を使いこなせるレスラーがひとりも現れていない。教えられる人間がいないのだから仕方ない」  UWFの分裂騒動――前田のリングス、高田グループのUWFインターナショナル、藤原グループのプロフェッショナル・レスリング藤原組の3派への細胞分裂――は“神様”を苦悩させた。  その後、藤原組から独立した船木誠勝、鈴木みのる、ケン・シャムロックらが新団体設立の相談のためフロリダを訪れると、ゴッチさんは古代格闘技パンクラチオンの派生語であるパンクラスというネーミングを新団体の名称としてプレゼントした。 「真実を知って傷つくのは愚か者だけだ。しかし、この世は愚か者だらけだった。The truth could only hurt fools, but I found out the world was full of fools」 「値段を知っても、その価値を理解したことにはならない。Everybody knows the price, but nobody knows the value」 「スズキ(鈴木みのる)がこのあいだここにやって来たが、わたしが君たちに教えてやれることはもうない、といって帰した。『ぼくはカール・ゴッチみたいになりたい』などと口にしておるから、そう思ってくれるのはうれしいが、馬鹿をいいなさんな、と伝えた。わたしのようになったらどうやって生活するつもりだ、とね」 「パンクラスという名称は、5000年もまえからあるものだ。キャッチ・アズ・キャッチ・キャン。オール・イン・レスリング。どう呼んでもかまわない。まず、みずからを鍛えよ。Practice what you preach」 「兵士を育てなければ将軍にはなれんぞ、ということだ。はじめにフナキ(船木誠勝)がわたしを訪ねてきたときは、シュート・レスリングがどうのなどといっておったから、わたしは、それはいかんといった」 「シュートshootは、レスリング・ビジネスに関わっている人間だけにしか通用しないスラングだ。シュートの反対はワークworkだ。シュートとかワークとか、そんなものは卑しい単語なのだ。なにも隠すことがないのならレスリングと呼べばいいではないか。シュートとは拳銃を撃つという意味だ。『OK牧場の決闘』でもみせようというのか」 「フジワラ(藤原喜明)、マエダ(前田日明)、パンクラス。みんなに幸あれ。Good luck to all of them. わたしは遠くからみていることにする。もう日本に行くことはないかもしれんしね」
斎藤文彦

斎藤文彦

 ゴッチさんは、だれもそれをみていなくても、毎朝、明るくなると起床し、2時間くらいのコンディショニング・トレーニングをおこない、夜は外が暗くなるとベッドに入った。もうリングに上がってレスリングをすることはないのに、毎日毎日このルーティンをくり返した。 「わたしは、食べたり飲んだりすることだけが趣味だからね。だから、運動せんといかんのだ。それだけだ。みずからに厳しくあれ。トレーニングは若いうちはシュッドshould(――するべき)だが、年をとったらマストmust(――しなければならない)だ」 「ネバー・ライNever lie(嘘をつかないこと)、ネバー・チートNever cheat(ズルはしないこと)、ネバー・クイットNever quit(やりはじめたことを途中でやめないこと)」 文/斎藤文彦 イラスト/おはつ 以下は、筆者が20数年まえに製作・監督したビデオ映画「Kamisama Karl GotchStory」 ⇒【動画1】http://www.youtube.com/watch?v=LgdCSBmi6j8 http://www.youtube.com/watch?v=LgdCSBmi6j8 ⇒【動画2】http://www.youtube.com/watch?v=rT5Opm8R-jg http://www.youtube.com/watch?v=rT5Opm8R-jg ⇒【動画3】http://www.youtube.com/watch?v=PrA01GU3NE0 http://www.youtube.com/watch?v=PrA01GU3NE0 ※「フミ斎藤のプロレス講座」第47回 ※斎藤文彦さんへの質問メールは、こちら(https://nikkan-spa.jp/inquiry)に! 件名に「フミ斎藤のプロレス講座」と書いたうえで、お送りください。
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