ディスコ文化とモテを振り返る――“聖地”六本木スクエアビル、マハラジャ、ゴールドそしてジュリアナ東京
バブル前夜に多感な10~20代を過ごした人たちがあのころの思い出に浸るとき、テッパンとして、つい盛り上がってしまうのが「ディスコ」ネタ。とはいえ、さすがにもう30年近くも前のうろ覚えゆえ、誰も彼もが口にする時代考証は案外あやふやだったりする。そんなわけで、とりあえずは点在する記憶を整頓し、「ディスコの歴史」を時系列に沿って振り返ることからはじめてみよう。
まず、80年代最初のディスコブームは、1980~1984年のムーブメントで、別名「サーファーディスコブーム」とも呼ばれていた。
まだ有名ディスコの数々が新宿や渋谷という従来の繁華街に乱立していたなか、「ネペンタ」や「ギゼ」などがあった六本木スクエアビルが“聖地”とされ、多くの店が「男性客のみ入店不可」を掲げていた。同伴できるギャル(当時は若い女性のことをすべてひっくるめて「ギャル」と称していた)がいない男は、エントランス周辺で「お願い! 一緒に入るだけでいいから!!」とナンパに勤しみ、チークタイムを過ごせる新たなギャルを捕獲するため、店内を徘徊しまわっていた。
もちろん、独壇場とばかりにモテまくっていたのは、ガングロ・口ヒゲ&長髪マッシュルームカットのサーファーだけで、ディスコにおける「モテる・モテない」のヒエラルキーがやんわりとではあるが、このころから確実に形成されつつあった。
そんな、どこかやさぐれていてアウトローだったこれまでのディスコのイメージをガラリと変えたのが、1984~1988年のディスコブーム。曲調はソウルからユーロビートがメインとなり、ここで登場するのが「マハラジャ」である。
マハラジャがつくった「新しいディスコ文化」とは、誤解を恐れずに表現すれば「差別の文化」である。店側がファッションを基準に客を選ぶドレスコードに、モデルや芸能人などのフリーパス制。「お客さま、その服装はちょっと……」と、入店の是非の命運を握る黒服に向けられる羨望のまなざし。運良くお眼鏡にかない、「通行」を許可されてもVIPルームという、さらなる選別のふるいが立ちはだかってくる。
マハラジャがあった麻布十番は当時、六本木駅から徒歩で10分以上もかかる場所にあった。その不便さが皮肉にも「ディスコに高級車で乗りつける男」「タクシーで乗りつける男」「とぼとぼ歩いてくる男」という貧富の差を生み、BMWの3シリーズですらギャルからは「六本木カローラ」と揶揄される偏ったステイタス感覚が根付いていった。
日々の夕食を吉野家の牛丼でしのぎながら、5年ローンで中古の外車を買う「なんちゃってリッチマン」が、上から下までハウスマヌカンにコーディネイトしてもらったブランドスーツをぎこちなく着こなし、おどおどしながら街を流す時代でもあった。当たり前の話だが、バブル景気だからといって皆がその恩恵を受けていたわけではないのだ。
さらにディスコへクルマで乗り付ける「モテ仕様」の定番化と伴い、ディスコは「もっと不便な場所」へとテリトリーを広げていく。これが1988~1991年に起こった「MZA有明」「サイカ」「ゴールド」などで知られるウォーターフロントブームへとつながっていくのであった。
ちなみにディスコブームの代名詞「ジュリアナ東京」がオープンしたのは、バブル崩壊の年とされる1991年。メディアでは「バブルの象徴」として取り上げられがちだが、正確ではない。お立ち台をはじめとするマハラジャがつくりあげたディスコの概念を曲解し、ただデフォルメしただけの「バブルの徒花」――。それがあの乱痴気騒ぎの正体だったのではなかろうか。
ディスコとクルマの必勝ナンパセット
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大阪府生まれ。年齢非公開。関西大学経済学部卒業後、大手画材屋勤務を経てフリーランスに。エロからファッション・学年誌・音楽&美術評論・人工衛星・AI、さらには漫画原作…まで、記名・無記名、紙・ネットを問わず、偏った幅広さを持ち味としながら、草野球をこよなく愛し、年間80試合以上に出場するライター兼コラムニスト&イラストレーターであり、「ネットニュースパトローラー(NNP)」の肩書きも併せ持つ。『「モテ」と「非モテ」の脳科学~おじさんの恋はなぜ報われないのか~』(ワニブックスPLUS新書)ほか、著書は覆面のものを含めると50冊を超える。保有資格は「HSP(ハイリー・センシテブ・パーソンズ)カウンセラー」「温泉マイスター」「合コンマスター」など
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