更新日:2022年12月14日 01:10
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アブドーラ・ザ・ブッチャー “ブッチャー”はニッポンのロングセラー商品――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第39話>

アブドーラ・ザ・ブッチャー “ブッチャー”はニッポンのロングセラー商品<第39話>

連載コラム『フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100』第39話は「アブドーラ・ザ・ブッチャー “ブッチャー”はニッポンのロングセラー商品」の巻。(イラストレーション=梶山Kazzy義博)

 典型的な大悪役キャラクターなのに、なぜかファンに愛されつづけた不思議なプロレスラー。  テレビに映っていた時間、観客と共有した時間は、ほかのどの外国人レスラーよりも、どんなに活躍したプロ野球の助っ人外国人選手よりもはるかに長い。  プロレスファンでなくても、たいていの日本人は“ブッチャー”の顔と名前は知っている。アブドーラ・ザ・ブッチャーは、この国でいちばん有名なガイジンのひとりである。  黒光りした坊主頭と得意技の頭突き、日本人にはなんとなく親しみのある“すててこ”みたいなコスチューム、お相撲さんのようなアンコ型の体つきがずっと変わらなかったこと、また、変えなかったことがお茶の間の人気者になったいちばん大きな理由かもしれない。  昭和40年代から昭和50年代にかけてテレビのプロレス中継にチャンネルを合わせるたびに、ブッチャーは額から血を流していた。  それ自体は非日常的な光景ではあるけれど、そこにいるのがブッチャーだと画面を観る側はある種の安心感のようなものをおぼえた。  ブッチャーというプロレスラーは、そういう偉大なるマンネリズムをつらぬいたロングセラー商品だった。  ブッチャーというリングネームも“スーダン出身”というプロフィルもまったくのフィクションで、ほんとうはカナダ出身。しかし、カナダ人でアフリカン・アメリカン(黒人)といっても日本人にはあまりピンとこない。  ブッチャーはあくまでもブッチャーという固有名詞だから、黒人というイメージさえない。  ザ・シークにスカウトされてプロレスラーになったのは1968年で、ブッチャーに変身したのはデビューから9年後の1967年。下積み時代がけっこう長かった。  アメリカではいわゆる怪奇派のヒールとして師匠シークとまったく同じ路線を歩んだが、メインイベンターではあってもスーパースターではなかった。  ブッチャーとシークの大きなちがいは、シークがリングの内側でも外側でも“アラビアの怪人”としてのイメージをかたくなに守っていたのに対し、ブッチャーはリングを下りると“いい人”になって笑顔をふりまいていたことだった。  シークはブッチャーのそういう無防備なところをヒールとしては致命的な欠陥と考えたが、ブッチャーはブッチャーの哲学で子どもやお年寄りのファンを大切にし、どんなときでもサインや記念撮影に気軽に応じた。  シークは愛されないことを美徳とし、ブッチャーは愛されることを望んだ。  初来日は1970年(昭和45年)だから、もう50年近く年も日本の観客のまえで大流血シーンを演じていることになる。  全日本プロレスのリングでたくさんのタイトルを獲得した。ザ・デストロイヤーからUSヘビー級王座(1975年=昭和50年10月12日、大阪)、ビル・ロビンソンからPWFヘビー級王座(1978年=昭和53年10月18日、宇都宮)、ジャンボ鶴田からUNヘビー級王座(1980年=昭和55年10月13日、名古屋)をそれぞれ奪取。  ジャイアント馬場を下して『第4回チャンピオン・カーニバル』に初優勝したシーンがオールドファンの記憶に鮮明に刻まれている(1976年=昭和51年5月8日、札幌)。“昭和50年代”が現役生活のピークということになるのかもしれない。  かつては“1936年1月11日生まれ”という生年月日が公式プロフィルに記載されていたが、ある時期からこのデータが“1941年生まれ”に統一された。
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変わらない凶器攻撃と場外乱闘の“芸風”
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