タイガー・ジェット・シン “億万長者”になった大悪役――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第40話>
1970年代のアントニオ猪木の宿命のライバルで、“乱入”という古典的なストーリーラインで日本のリングに登場した最初の外国人レスラーである。
ダークスーツにネクタイ、頭にはターバンといういでたちの正体不明のインド人がリングサイド席に座っていて、金曜夜8時の『ワールドプロレスリング』(NET=現テレビ朝日)の生中継がスタートするとその男がいきなりリングに侵入してきて猪木への挑戦をアピールした(1973年=昭和48年5月4日、川崎)。
ゴールデンタイムのテレビ番組の映像としてはひじょうに事件めいた、しかし、プロレスの大河ドラマとしてはひじょうにセンセーショナルなデビューだった。
タイガー・ジェット・シンにとっては、じつはこれがヒール初体験の瞬間だった。インド、パキスタン系移民人口の多いカナダ・トロントでは、シンはそれまでずっとエスニック系のベビーフェースとして活躍していた。
この年の11月、シンは新宿の伊勢丹デパート前の路上で猪木を襲撃し、これを目撃した一般人が“110番”に通報し、警察が出動するという事件を起こした。猪木は「リングで決着をつける」とコメントし、被害届を出さなかった。
猪木はその日、女優で妻(当時)の倍賞美津子さんとショッピングをしていたとされるが、テレビカメラのない場所――映像には残されなかった――でこういう“乱闘”が発生したことがかえってプロレスファンのイマジネーションをくすぐった。
“シン伊勢丹事件”は昭和のプロレス史に残るナゾのエピソードとしていまも語りつがれているが、それがプロレス的な演出であったのか、あるいは突発的なできごとであったのかは永遠のミステリーとなっている。
“インドのパンジャブ出身”を自称しているから、カナダ人としてのプロフィルは公開されなかった。
リングネームの正しい発音はジートだが、日本では“ジェット”というカタカナ表記が定着した。
1965年、フレッド・アトキンスにレスリングの手ほどきを受け、トロントでデビュー。
力道山の友人だったアトキンスは、ジャイアント馬場のアメリカ武者修行時代のコーチ兼ロード・マネジャーをつとめた人物で、馬場とシンはいわば“兄弟弟子”の関係になる。
トロントはプロレスの勢力分布図のうえではたいへんユニークな“中立ゾーン”で、プロモーターのフランク・タニーはNWA、WWE、AWAのメジャー3団体とつねに友好関係を保ち、アメリカ各地からチャンピオン・クラスが定期的に遠征してくるテリトリーを築いた。
シンはキャリア2年(23歳)のルーキー時代、トロントでNWA世界ヘビー級王者ジン・キニスキー(1967年)、WWE世界ヘビー級王者ブルーノ・サンマルチノ(1967年=2回)に挑戦した。
ベビーフェース時代のシンのライバルは、あの“アラビアの怪人”ザ・シークだった。
シンとシークの因縁ドラマ(1971年-1974年)はトロントの名物カードとなり、“カナダのマディソン・スクウェア・ガーデン”といわれるメープル・リーフ・ガーデンを合計12回、完全ソールドアウトにした。
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