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クィアははじめからこの世界にいた。ただ、それを認識するための素地が私たちになかったのだ/『結晶するプリズム 翻訳クィアSFアンソロジー』書評

―[書店員の書評]―
 世の中には読んだほうがいい本がたくさんある。もちろん読まなくていい本だってたくさんある。でもその数の多さに選びきれず、もしくは目に留めず、心の糧を取りこぼしてしまうのはあまりにもったいない。そこで当欄では、書店で働く現場の人々が今おすすめの新刊を毎週紹介する。本を読まなくても死にはしない。でも本を読んで生きるのは悪くない。日刊SPA!で書店員による書評コーナーがスタート。ここが人と本との出会いの場になりますように。

『結晶するプリズム 翻訳クィアSFアンソロジー』(『結晶するプリズム 翻訳クィアSFアンソロジー』編集部)

 むかしむかしあるところにおじいさんとおばあさんがいて、おじいさんは外に仕事に行きおばあさんは家の仕事をしている。そんな筋書きを読んだとき、私たちはきっとかれらをこんなふうにイメージするのだろう。おじいさんとおばあさんは結婚していて、おじいさんはふたりが生きるためのお金を稼いでいて、おばあさんはそのあいだふたりが暮らす家を快適なものに整えている、というように。  そこに突然、桃がやってきたらどうだろうか。正確には、桃から生まれた人間だ。急にやってくるS(少し)F(不思議な)要素に、さすがの私たちも物語に対するイメージを変えるかもしれない。しかし「桃から人間が生まれている」というのに、「おじいさんとおばあさんは結婚していて、おじいさんはふたりが生きるためのお金を稼いでいて、おばあさんはそのあいだふたりが暮らす家を快適なものに整えている」のだろうという思い込みは、頑として揺るがない。いや、きっとそんな「思い込み」があることすら意識しないまま、私たちは物語を読んでいる。男女ふたりが同じ屋根の下に住んでいたら、それは婚姻関係(と性愛関係)を意味するのだ。そんなこと、一言も書かれていないのに。 『結晶するプリズム 翻訳クィアSFアンソロジー』はその名の通り、クィアが重要なテーマとなっている。クィア(queer)の語義は「逸脱」であり、主に性的少数者に対する差別的な意味合いでもって使用されていたが、それを当事者たちが自己を肯定する言葉として奪い返したという歴史を持つ。ゆえに本書の主要登場人物に「普通」の人はいない。それどころか、おそらく多くの人が初めて目にする属性かもしれない。アセクシュアル(性的慕情を抱かない、あるいは希薄な性的指向を持つ者)、ゼノジェンダー(自身を人間と認識しない者)、ツースピリット(男女の括りを超えた性認識を持つ者についての、ネイティブ・アメリカン圏における呼称)……etc.(特に聞き慣れないであろうものを列記したが、ここでした簡易な説明では不十分であり、時には不正確ですらある。記事末尾に当事者たちによる説明がなされているリンクを用意したので、各々で確認してほしい)。そもそも人間ではない場合もある。しかし、果たしてこれらはすべて「完全に別の世界の話」なのだろうか。  はじめは特に好きでもなかったのに気がついたら特別な存在になってしまっている(しかも叶わないことがわかっている)。価値観の古い親に認めてもらえない思春期の恋。自分たちを苦しめる制度・環境を、力を合わせて打破する試み(そして裏切り)。まったく新しい世界を知ることができる発明に胸を躍らせる瞬間。自らの物語=人生を後世に語り継ぎ、残そうとする人々。これらは「私たち普通の人」には経験し得ない物語なのだろうか。それとも、私たち普通の人が経験するあらゆることは、かれらのような「普通ではない」人たちには無関係な事象なのだろうか。  決してそんなことはない。単に知られていないだけ、描かれていないだけ、ないことにされているだけなのだ。もちろん、完全に「同じ」ではない。クィアにはクィア特有の経験と世界があり、当然、「私たち普通の人」にはわからないこともある。そもそも「異性愛中心主義や恋愛至上主義、ジェンダー規範や男女二元論など、ジェンダーやセクシュアリティにまつわる現代社会の支配的な価値観・倫理観を揺るがし、問い直す」(112 p)のがクィアSFなのだ。まずはそのわからなさを、そのまま受け入れてみることから始めよう。  ここであらためて、本書の企画意図を確認してみたい。「桃から生まれた人間」というSF的要素の持つ意味が、少し違って見えてくるのではないだろうか。

私たちは「今・ここ」とは違う世界を想像し志向することができるSF作品が大好きです。ちなみにここでいう“SF”とは、狭義のサイエンス・フィクションだけではなく、ファンタジーやホラー、少し(S)不思議(F)な小説を含む、広い意味でのSFです。SF作品の魅力の一つは、現実の価値観やしがらみから離れて、まだ見ぬ可能性を志向することです。(112p)

 むかしむかしあるところにおじいさんとおばあさんがいて、おじいさんは外に仕事に行きおばあさんは家の仕事をしている。そんな筋書きを読んだとき、本書を読んだあとの私たちはきっとこんなふうに考えるかもしれない。果たしておじいさんとおばあさんは婚姻関係・性愛関係にあるのだろうか。山に柴刈りに行くのは本当に賃労働なのか。川での洗濯はふたりの衣類なのか(他人の衣類を洗濯=賃労働しているのかもしれない)。しかも桃から人が生まれる……? つまりこれは男女間における生殖ではない……? 成長した桃太郎はどのように自身を認識していくのだろうか……? もしかしたら『桃太郎』はクィアの物語だったのかもしれない。そういえば、竹から生まれた者の話もあったのではないか。クィアははじめからこの世界にいた。ただ、それを認識するための素地が私たちになかったのだ。 アセクシュアル ゼノジェンダー ツースピリット なお、クィア・マイノリティに関する言葉や属性などを知りたい場合は、クィア当事者たちによって運営・編纂されているオンライン事典「LGBTQ+ Wiki」を参照するとよい。 評者/関口竜平 1993年、千葉県生まれ。法政大学文学部英文学科、同大学院人文科学研究科英文学専攻(修士課程)修了ののち、本屋lighthouseを立ち上げる。将来の夢は首位打者(草野球)。特技は二度寝
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