ニュースで流れないイラクの現実。「理論」や「学術」でなく「体験」で世界を語る/高野秀行・著『イラク水滸伝』書評
―[書店員の書評]―
世の中には読んだほうがいい本がたくさんある。もちろん読まなくていい本だってたくさんある。でもその数の多さに選びきれず、もしくは目に留めず、心の糧を取りこぼしてしまうのはあまりにもったいない。そこで当欄では、書店で働く現場の人々が今おすすめの新刊を毎週紹介する。本を読まなくても死にはしない。でも本を読んで生きるのは悪くない。日刊SPA!で書店員による書評コーナーがスタート。ここが人と本との出会いの場になりますように。
「誰も行かないところへ行き、誰もやらないことをし、誰も書かない本を書く」というポリシーを掲げるノンフィクション作家の高野秀行さんは、これまで世界中のいろんなところに行き、そこで体験したことを本に書いている。
ミャンマー北部、反政府ゲリラ支配区で7か月寝泊まりし、アヘンの原料であるケシ栽培に従事した体験を書いた『アヘン王国潜入記』。中国からミャンマー、インドに至るまでのジャングルを徒歩で歩いた『西南シルクロードは密林に消える』。暴行や略奪が横行する無政府状態のソマリア国内で、なぜかそこだけ平和な状態を維持しているという独立国を現地ルポした『謎の独立国家ソマリランド』。かと思えば世界中の納豆のルーツをたどった『謎のアジア納豆 そして帰ってきた〈日本納豆〉』『幻のアフリカ納豆を追え! そして現れた〈サピエンス納豆〉』、これまで学んできた25か国にも及ぶ言語とそれを覚えることになった顛末を書いた『語学の天才まで1億光年』、さらには腰痛との戦いを書いた『腰痛探検家』なんていう本も出している。
そんな高野さんの最新作は、イラクの巨大湿地帯を探索した『イラク水滸伝』。メソポタミア文明で知られるティグリス川、ユーフラテス川という二つの大きな川が流れるイラクには広大な湿地帯〈アフワール〉が存在する。高さ8mにも及ぶ葦が生い茂り、陸路と水路が入り混じる湿地帯は古くから追われる者が身を隠すのに適した土地で、権力に抗うアウトローや迫害されたマイノリティが逃げ込む場所だったという。湿地帯には他にもさまざまな事情でイラク都市部 に生活できない人たちが住み着き、独自のコミュニティを形成している。高野さんは船で湿地帯を旅しながら、そこに住む人々の話を聞きたいと考えたが、これが大変な取材となった。
最初に訪問したイラクの首都バグダッドでは現在も日常的にテロや略奪事件が起きていることを実感させられるエピソードが出てくる。そこから地方であるアフワール周辺に移動するも、今度は「人の問題」「土地の問題」が出てくる。
アフワールでは「湿地帯の王」ジャーシム氏に案内してもらえることになるが、良くも悪くもジャーシム氏が見せたい場所にしか行けず、紹介したい人間にしか話を聞けない。独自の取材行動をしようにも湿地帯を歩いて訪問することはできず、公共交通機関もない。カフェやホテルのような場所もなければ公園も公衆トイレもないので、行動のすべてを現地民に委ねることになる。また現地は外国人の来訪がほぼない地域である。見知らぬ外国人はテロリストの可能性を持った「不審者」として見られ、紹介がなければ現地の人と話すことすら難しい。そして調査途中で新型コロナウイルスのパンデミックが発生し、何年もイラクに行けなくなってしまう。二重三重の制限を受けた高野さんがどうやって湿地帯取材を完遂させたのか、ぜひ読んでみてほしい。
この本ではニュースで伝えられることのない、私たちの知らないイラク国内の人々の生活が、文化が、写真とともにたくさん紹介される。それは「戦争」「自爆テロ」で連想されるイラクとはまったく違った位相のものだ。「水の近くに住む名もなき英雄たち」という趣旨で高野さんはアフワールの人たちを「水滸伝」と称するが、ずっと読んでいると誰も知らない、誰も見ていない景色を伝える高野さん自体が『東方見聞録』のマルコ・ポーロのようである。
都市から遠く離れた「辺境」を訪れながら、高野さんの視座はいつも優しい。それはどんな場所であれ、そこに暮らす彼らを「同じ人間」として接するからだ。そうやって高野さんは今回もイラクの人たちのホスピタリティに感激し、知られざる食事を味わい、現地語で愛の歌を歌い、今も残る拉致や人身売買文化には許しがたい感情を抱く。どこまでいっても人間として生きる。これが高野作品の何よりの魅力である。
「理論」や「学術」でなく、「体験」で世界を語る本。こういう本がもっとたくさん増えてほしいし、こういう本が出る世の中であってほしいと切に願う。
評者/伊野尾宏之
1974年、東京都生まれ。伊野尾書店店長。よく読むジャンルはノンフィクション。人の心を揺さぶるものをいつも探しています。趣味はプロレス観戦、プロ野球観戦、銭湯めぐり
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