「負けても自分のせいじゃない」岡田武史が明かす、修羅場や大勝負で“開き直る”大切さ
“SAMURAI BLUE”の愛称で知られるサッカー日本代表。現在は森保ジャパンが、2026年に北中米で開催されるFIFAワールドカップ(W杯)の本戦出場に向けてアジア予選に臨んでいる最中だ。
1994年のW杯アメリカ大会では、アジア地区最終予選でまさかの逆転負けを喫した“ドーハの悲劇”で、W杯出場を逃したサッカー日本代表。1998年のW杯フランス大会では、悲願のW杯出場に向けて日本代表が野心を燃やすなか、当初チームを率いていたのが加茂周監督だった。
しかし、同大会のアジア最終予選4戦目でカザフスタンとドロー(引き分け)に終わると、突如として加茂監督が更迭され、日本代表に大きな衝撃が走る。
大舞台の指揮官に白羽の矢が立ったのは、コーチとしてチームに帯同していた岡田さんだった。
土壇場での監督交代に揺れた日本代表だったが、気迫と粘り強さで踏ん張りを見せ、W杯出場まで“あと1勝”までこぎつける。
プレーオフで迎え撃つのはイラン。勝てば念願のW杯初出場、負ければまたしても最終予選で敗退。
「明日勝てなかったら、日本に帰れないかもしれない」
そう妻に伝えたという岡田さんは、当時の壮絶なプレッシャーを次のように話す。
「今でこそ、日本代表はサッカーW杯に毎回出場するようになりましたが、W杯に出場経験がなかった当時は、想像を絶する緊張感や重圧を抱えながら指揮を執っていました。結果が振るわなければ、サポーターが暴動を起こしたりと、“一触即発”の異様な雰囲気も経験しましたね。
私の自宅にも警察が24時間体制で警備にあたっていて。それこそ試合で何かやらせば、身の危険に晒される。本当に極限状態の中で日本代表の監督を務めていたんです」
とても平常心を保てないような、殺気立った雰囲気が漂うなか、岡田さんはイラン戦へ臨む前日に、ある思いから覚悟が決まり、自然と腹が据わったと語る。
「明日自分ができることは、今持っている力を全て出すことだけ。それで勝てなかったら自分の力が足らないのだから国民に謝ろうと思った。同時に、いきなり明日にサッカーの名将になれるわけがない、もし負けたら俺を監督に抜擢した会長が悪い(笑)と考えていたんです。
100%の気概で戦って、負けたら負けたで自分のせいじゃない。そう思えたことで、逆に開き直ることができ、何も怖いものがなくなったんですよ。これがきっかけで、自分の“遺伝子”にスイッチが入り、周囲からの批判や雑念なんてほとんど感じなくなりました」
チームが勝つためにどっちが正しいかと考えたとしても、答えなんて出ない。
結局は自分の信じる道を突き進むしかなく、大勝負で決断するときには「無心に近い状態」でなくてはならないと岡田さんは言う。
外野の意見に惑わされたりと、雑念がある状態では正しい判断が下せないからこそ、完全に開き直れたことで、大一番に挑むことができたのだ。
その翌日、日本代表はイラン戦を制し、待望のW杯初出場を勝ち取る。
日本中が熱気に沸いた“ジョホールバルの歓喜”は、まさに日本サッカー界にとっても新たな歴史の1ページが刻まれた瞬間だった。
そんななか、かつてサッカー日本代表の監督を2度務めた岡田武史さんは、「日本サッカー界の功労者」としてチームを率いてきた。
日本がW杯に初出場を果たした1998年のフランス大会に続き、2010年の南アフリカ大会では日本代表をベスト16に導くなど、サッカー日本代表に大きな成長の足跡を残してきた。2014年からは愛媛県今治市を拠点とするサッカークラブ「FC今治」のオーナーに就任し、経営者の道へ。
主体的にプレーできる自立した選手と自律したチームを育てるFC今治独自の「岡田メソッド」を体系化してチームの強化に貢献してきたほか、今治市全体の地域活性化を図る「今治モデル」を打ち出すなど、次々と画期的な取り組みを行ってきたのだ。
サッカーの名将から経営者の道へ進んだきっかけや、思い描くビジョンについて、岡田さん本人に話を聞いた。
W杯初出場をかけた一戦の前に味わった緊張感や重圧
「負けても自分のせいじゃない」。開き直ったことで腹が据わった
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1986年生まれ。立教大卒。ビジネス、旅行、イベント、カルチャーなど興味関心の湧く分野を中心に執筆活動を行う。社会のA面B面、メジャーからアンダーまで足を運び、現場で知ることを大切にしている
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