心身に負った“傷”は誰が癒やすのか――さまざまな傷と向き合う10の物語/千早茜『グリフィスの傷』書評
―[書店員の書評]―
世の中には読んだほうがいい本がたくさんある。もちろん読まなくていい本だってたくさんある。でもその数の多さに選びきれず、もしくは目に留めず、心の糧を取りこぼしてしまうのはあまりにもったいない。そこで当欄では、書店で働く現場の人々が今おすすめの新刊を毎週紹介する。本を読まなくても死にはしない。でも本を読んで生きるのは悪くない。ここが人と本との出会いの場になりますように。
誰もが身に覚えのある傷。普通であれば早く治ってほしい。痛みとはおさらばしたい。そう思う人が大多数だろう。しかし月日が経ち、忘れかけていた傷痕をそっと触るとき、苦しんでいたあの頃を思い出すことがあるかもしれない。その過去は忘れ去りたいものなのだろうか。もしくはちょっと甘美な感じに変化しているのだろうか。千早茜の新刊『グリフィスの傷』は、そんな現在進行系の傷と傷痕に真摯に向き合う短編小説集だ。
日常で受けた微かな身体の傷、事故で負った一生残りそうな重篤な傷、そして見た目ではわからない心に刻み込まれた傷……。いろいろな場面から見える登場人物たちの身体の疼きと気持ちの移り変わりが印象的だ。短編10作のうち、あえて次の2作品を挙げてみたい。
まずは「この世のすべての」。本書のなかでも痛みのにおいが強く漂う。主人公の〈わたし〉は自宅マンションで引きこもりを続ける女性。心と身体へ受けた傷によって、父親を含めた男性と接することができなくなってしまった。彼女は家族に見守られながら息をひそめ、〈おびやかすもののない、退屈な日常〉を送り、他の住人も表面上は穏やかに過ごしているように見えた。だがそんな平穏な日常に突如、顔中にひきつれた傷があり、住人から〈お化けより鬼より〉恐れられる男が現れる。
昔、〈熊みたいな犬に喰いつかれた〉という老いた男は、恨みを晴らすようにマンション中の飼い犬や飼い主に、見境なくクレームをつける。男と他の住人の絶え間ない争いを冷静に見つめる〈わたし〉の視線がそっと絡む。さらに彼女の心のなかのコントロールできない恐れや、今の生活を守ろうとする力がうごめき出す。そして男から次のような気持ちを感じ取る。
〈わたしはこの凄惨な傷痕をどんなに眺めても、男から怒鳴られたことはない。憐れまれていたからだと、やっと気づいた〉
そう気づいた彼女の心境の変化とは。さらにその後、敷地内で次々と起こる犬の虐待を疑われた男に対して取った行動とは。繊細な心理描写と、二人以外の住人の無遠慮な視線も絡んで、サスペンスとしても読み応えがある一作だ。
〈瞬きを、する。このまぶたに傷をつけてくれた人のことをおもう。あのひとのおかげで、あたしの目は世界を映している〉
インパクトがある「この世のすべての」に対して、最終章の「まぶたの光」はまた違う印象を残す。先天性眼瞼下垂(がんけんかすい)という、まぶたがうまく開かない病気に幼少期にかかった中学3年生の女子生徒〈あたし〉と、手術を行った女性医師〈さやちゃん先生〉の二人が織りなす夏のある日の物語だ。
経過観察のために郊外の中学校からバスや電車を乗り継ぎ渋谷で降り、スクランブル交差点やファッションビルを抜け、先生がいる病院へ向かう。学校のプールサイドでの同級生とのエヴァーグリーンなやり取り、ネオンや人々の喧騒が降り注ぐ渋谷、不安気な患者たちがいる病院。今は完治して一人で病院に通う〈あたし〉の目に映る風景が鮮やかに描き出され、こちらもぐっとその世界へ引き込まれる。
幼い〈あたし〉に、医師になって初めてまぶたの手術を施した先生は、〈手術ってね、もう一度、傷つけることなんだよ〉と言う。傷つける傷つけられるを通して二人の間に流れた10年以上の月日が、〈あたし〉にとっての掛け替えのない大切な思い出として、より輝いていく。また先生との絆を確かめ合うような会話が、かつての幼子と大人から、現在の少女と大人の関係へと変わったギャップを埋めていく。読みながら密やかだけれど大胆な感情の交わりに眩しくなり、思わず目を閉じて、二人の世界へ身を委ねたくなってしまう。まさしくこの本のラストにふさわしい作品だった。
ここでは紹介できなかった作品の、他人には推し量れないさまざまな傷は、読者が自身の過去や今を重ねてあれこれ思いを巡らすのにも悪くない。そして、傷が癒えても、あるいは消えない傷痕を持っていても、人間として生きる切実さを描き切ったこの短編集から、長編作家としても活躍する著者の新たな想いを受け取ってほしい。その上で、日常生活やSNSにおいてコミュニケーションに傷つき悩む人々にお薦めしたい小説だと、とても感じるのだ。
評者/山本 亮
1977年、埼玉県生まれ。渋谷スクランブル交差点入口にある大盛堂書店に勤務する書店員。2F売場担当。好きな本のジャンルは小説やノンフィクションなど。好きな言葉は「起きて半畳、寝て一畳」
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