タイの犯罪捜査を変えた一人の日本人名刑事の存在
新聞やテレビで事件事故現場の外側は日常的に目にし、必ず立ち入規制線の黄色いテープが張られているのがわかるだろう。タイの殺人事件現場でも立ち入り禁止テープが張られ、刑事や鑑識捜査官が現場検証をする。一見ごく普通の風景だが、タイではそれまでマスコミも野次馬も現場に入り放題が当たり前で、現場保存という概念が乏しかった。
これが一変したのは、実は一人の日本人の存在があった。
その日本人の名前は戸島国雄という。1995年、戸島氏が警視庁に勤めていたころに、JICA(国際協力機構)が派遣する専門官としてタイ国家警察庁に派遣されてからなのだ。
◆若いタイ人警察官とともに現場で汗を流し同じものを食う
知り合いもなく、文化もタイ警察のしきたりもわからない。文字通りゼロからのスタートだった。タイ国家警察においても独自の手法があり、当初は誰も聞く耳を持ってくれなかったという。戸島氏が自前で用意した日本の教材は「どうせ外国のこと」と見向きもされなかった。
「高い教壇の上から教えてやるという姿勢ではだめ」
そう決意した戸島氏は、JICAが推奨する高級住居を離れ、一般タイ人が住む下町のアパートに引っ越した。日々多発する事件事故には必ず出動し、若い警察官たちに現場指導をしながら互いに汗を流し、その帰路には屋台で同じ皿の物を食べたという。そうした日々を続けるうちに、次第に信頼関係ができあがっっていった。
その間、戸島氏は自分で撮影したタイの事件事故の写真を教材化し、タイ語で鑑識技術の教科書も執筆した。現在でも戸島氏が執筆した教科書はタイ国ポリスアカデミーで使用されている。
⇒【写真】はコチラ https://nikkan-spa.jp/?attachment_id=526307
冒頭に書いた、タイの殺人事件現場で貼られる立入禁止テープは、もともと戸島氏が警視庁で開発したもので、1993年に警視総監賞を受賞しているのだ。タイにおいても戸島氏が個人的に日本からテープを取り寄せて使用していたが、現在ではタイ全土で必須アイテムとなった。
タイ警察内部で認められる存在となった戸島氏だが、1998年にJICAの任期も終わり、いったん日本に戻ることになる。
戸島氏は日本警察においても重要な存在で、1977年から警視庁でたったひとり続けていた似顔絵捜査が21年目に陽の目を見て、日本で第一号となる似顔絵専門捜査官にも任命されたりもしているのだ。
そして、2001年に警視庁を定年退職すると、再びタイから戸島氏を求める声が聞こえてきた。タイ国家警察から指名で要請があったのだ。
こうして、2002年より再びタイに着任。今度は警察大佐(頂点から4番目の階級)の地位を与えられ、2011年7月まで、気がつけばタイでのキャリアが10年を超える活躍となったのだ。
⇒【後編】『スマトラ島沖地震の被災地で日本人刑事が下した「決断」』につづく https://nikkan-spa.jp/526295
<取材・文/高田胤臣 写真提供/戸島国雄>
【戸島国雄(とじま くにお)】
1941年生まれ、1960年自衛隊入隊(習志野第一空挺団24期生)、1965年警視庁巡査、1970年より警視庁刑事部鑑識課現場写真係になる。三島由紀夫割腹事件や日航機123便墜落事故、連続企業爆発事件、幼女連続殺人事件、トリカブト保険金殺人など数々の有名事件事故を担当
1995年 JICAの専門官としてタイ警察庁に派遣され、犯罪捜査および現場鑑識の指導に当たり、1998年に帰国
2000年9月 似顔絵専門捜査官001号に任命され、2001年警視庁を定年退職。在任中警視総監賞など107回受賞
2002年より再びタイに派遣され、警察大佐として2011年7月まで活躍
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