アナウンサーによる「楽しみ方の強制」について考える【鴻上尚史】
― 週刊SPA!連載「ドン・キホーテのピアス」<文/鴻上尚史> ―
僕の出身は愛媛県の新居浜市で、毎年秋には「新居浜太鼓祭り」というのが開かれます。すべてが観光産業化したこの時代に、毎年、10月16~18日と決まっています。
今年は見事に土日を外して、水木金でした。一時期、観光客を呼ぶために、10月中旬の金土日にしないかという動きもあったのですが、「神事だから」という理由で却下されました。と書くと、さも神聖な祭のようなイメージですが、実際は、じつにダイナミックな荒ぶる祭です。神輿にあたる太鼓台と呼ばれるものは、かき棒が電信柱ぐらいの太さがあって、長さ7メートル強、高さ8メートル強、約200人ものかき手で担ぎ上げます。
「四国三大祭りの一つ」と新居浜では呼んでいます。他の二つはなにかというと、徳島の阿波踊りと高知のよさこい祭です。自分で言いますが、ものすごく強引です。プロ野球の球団と中学校の野球部を一緒にするようなものです。
それより僕は、ずっと「日本三大荒くれ祭り」と呼んでいます。岸和田のだんじりと諏訪の御柱と、新居浜の太鼓祭りです。共通点は、あまり大きな声で言えませんが、「祭で死者が出ることがある」です。
それは決して恥ではないと思っています。生命の躍動である祭は、死が常に張りついているからこそ、輝くのです。
僕が子供の頃は、でかい太鼓台が正面からがつんとぶつかり、毎年、死傷者が出ていました。周りを取り囲んだ群衆は、そのたびに熱狂的に拍手したものです。
最近は、「平和運行」というのがスローガンになり、警察も厳しく目を光らせています。それでも、数年に1度、1人ぐらい死にます。
そんな祭を映像に撮り、作品にするという仕事が舞い込んで来て、今年の祭は久しぶりに帰省しました。
ケンカ祭の時代からずいぶん平和になって、観客席を作って、その前で太鼓台を1台1台紹介する、なんて企画も生まれていました。
太鼓台が観客の前に入場を始めると、アナウンサーの女性が解説を始めました。この太鼓台は、どの地区のもので、どんな由来があって、と役にたつ情報はいいのですが、すべてを話し終わると、「勇壮に揺れています」とか「かき手が心を一つにして差し上げています」とか「ライトの中で光っています」とか、いや、それは見ればわかるよ、なぜ話し続ける、という状態になりました。
◆楽しみ方を強要される雰囲気とアナウンス
困ったのは、かなりの頻度で「盛大な拍手を――!」と繰り返すことで、そのたびに、なんとなく拍手をしなければ悪いような気持ちになりました。
大音量のアナウンスなので、嫌でも耳に飛び込んできて、そして、そのアナウンサーさんは「拍手をー!!」と叫び続けるのです。
日本人は本当に我慢強いなあと思うのは、こういうときです。目の前の風景を描写し、何十回も拍手を求めるということは、「楽しみ方」を強制していることです。それに対して、誰も「うるさい! 必要なことを言ったら黙っとけ!」とは叫ばないのです。
一緒にいた知人は「あのアナウンサーは自己顕示欲が強いから、あんなに話し続けてるんだな」と言いましたが、そうではないと思います。プロ野球の中継などのスポーツの解説でも、自己顕示欲の強い解説者は話し続けます。が、アナウンサーは違います。不安だったり、サービス精神が旺盛だったり、責任感が強い人ほど話し続けるのです。
たぶん、太鼓台の描写を続けていたアナウンサーさんも、じつに責任感の強い、不安な人なんだと思います。だからこそ、沈黙に耐えられず、言わなくていいことを話してしまうのです。
けれど、電気的に拡大された音量を独り占めしているということは、神の力を手に入れている、ということなのです。その自覚がないまま、話し続けるのは、いかに不安で、いかにサービス精神に溢れていても、下々の人間としては困ってしまうのです。
話し続けること、音を出し続けることがサービスではない、音を出さないこと、話さないことがじつはサービスだと気付くことは大切なことだと思ってます。あ、機会があれば、「新居浜太鼓祭り」ぜひ、来て下さい。興奮しますよ。
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