ばくち打ち
番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(19)
ヴィクトリア朝時代のセントジェームズ・スクウェア近辺には、貴族や金持ち相手の違法カジノが数多く存在した。
警察も、これらの違法カジノを取り締まることはせず、いわゆる「当局黙許」の状態だ。
ヴィクトリア朝といえば、地球上のあらゆる地域から富の収奪が制度的におこなわれ、大英帝国主義がその栄華を極めた時代でもあった。
と同時に、ディケンズの小説がよく描写したごとく、社会の階層分化がきわめて露骨・鮮明化された時代でもあった。
ロンドンには、生活困窮者やホームレスが溢れる。
そのホームレスの、それもなるべく死に掛けたやつを攫(さら)ってきて、カジノの勝負卓に縛り付た。
そして、そのホームレスが死ぬ日時に関して、賭ける。
賭けの結果にいささかでも影響を与える行為は厳しく禁止された、と『英国賭博史』を書いたフィリップ・ジョーズが指摘している。
死んでゆく者への、コップ一杯の水ですら、禁じられたのだった。
その酷(むご)い歴史が、1960年の『賭博全面解禁令』において、「ヒトの死にかかわるもの」という奇妙な例外条項を設けさせた理由である。
したがって、1960年以降の英国では、この「ヒトの死にかかわるもの」を除けば、なににでも賭けられるようになった。
X月X日午後3時00分に、ハンプステッド・ヒースの丘に雨が降っているか否か、が合法的に賭けられる。
ブッキーに申し込めば、彼ら彼女らは過去の統計調査をして、オッズを知らせてくれる。申し出た者が、そのオッズを受け入れれば、そこで賭博は成立する。
もちろんその申し出がコスト的に見合うものだけを、ブッキーは扱ってくれるのだが。
ついでだが、奇(く)しくも、(ヘンリー8世の賭けで大鐘を奪われた)セントポール寺院でご結婚なされたチャールズとダイアナの1996年のお離婚で、わたしは、(オーストラリアからのベットだったが)おおいに儲けさせてもらったものである(笑)。
またまた飛び過ぎたので、わたしのバースでの賭博生活に話を戻そう。
子供は生まれた。
借金なし・持ち家あり・最低限飢えることはない奨学金付き、と生活がそれなりに安定し始めた頃から、しかし、賭博に対するわたしの心構えが変化した、とのちになって自己分析している。
ぎりぎりの切実さやハングリーさを失ってしまった。
なにがなんでも勝ちに行くという攻撃性を喪失し、「負けない賭博」をこころざすようになっていた。
砕けて言えば、わたしの賭博に向かう姿勢に、「娯楽」としての要素が強くなっていった。
おかげで大負けはしない。
同時に、なかなか勝てなくなってしまった。
いや、勝っていることはあるのだ。
しかし、そこで席を立てない。
――勝ち逃げだけが博奕(ばくち)の極意。
この大原則を忘れて、だらだらと勝負卓に居座ってしまう。
だって、博奕はなにごとにも代えがたく、エキサイティングでスリリングなのだから。
これ以上に楽しいことを、もし知っている者が居るとするなら、是非わたし宛てにご一報願いたい。(つづく)