ばくち打ち
番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(21)
実質的に一党独裁で政治的には問題があるといえ、年収とか充実した住環境の提供とかいった待遇面では、シンガポールの大学からのオファーが圧倒的によろしかった。蛇足だが、日本だって「実質的に」は、一党独裁である。
しかし、
「国家の重さとか縛りとかで考えると、OZ(オズ=オーストラリアのこと)が一番軽そうね」
妻のこのひとことで、わが一家の近未来はあっさりと決定された。
目指すは南半球。
バースの持ち家を売ると、即座に出発だった。
いったんやると決めたら、すぐ行動に移す。
昔も今も、我が家のモットーである。
じつはヒースロー空港から英国を出国した時点では、OZ・NSW(ニュー・サウス・ウエールズ)州での就職は決まっていても、オーストラリアの就労ヴィザがまだ出ていなかった。
シンガポールで、ヴィザ待ちとなる。
永住ヴィザにOKが出るまでに、意外と時間がかかった。
たまに在シンガポールの豪大使館(正式な呼称は、「ハイ・コミッショナー」で「大使館」ではない。英連邦国間の外交部は、そういうことになっている)に通いながら1か月ほどシンガポールで遊んだ。
バースの家を売ったので、カネはあった。
この頃、1GBP=500JPY強だったと記憶する。
ついでだが、わたしがフーテンをやっていて最初にロンドンに行った1972年における為替交換率は、1ポンド=800円強である。そのちょっと前の固定相場制の時代なら、1000円(!)を超えた。
植民地を失い、社会的歪みと矛盾にもろに直面して弱っていたとしても、1981年時点の英ポンドは、まだまだ相対的に強くて、とても遣いでがあった。
ラッフルズ・ホテルの2ベッドルーム・パームコート・スイートを4週間借りた。
このパームコート側にある2ベッドルーム・スイートは、現在ではプレジデンシャル・スイートと名を替えたらしい。
もう無茶苦茶な散財だった。
11時になると、ホテル名物のロングバーでシンガポール・スリングを2~3杯ひっかけ、テーブルに置いてある無料ピーナッツの食べ殻を、大量に床に撒き散らし(これも名物的「伝統」)、午(ひる)をすぎれば高級レストラン巡りで、街に繰り出す。
不動産経由で3倍になったとはいっても、元を辿れば、グリーン・パークのルーレット卓で拾った他人(ひと)さまのおカネだった。
南半球における新生活への門出(かどで)を祝うのである。構うこっちゃない。どかどか、遣っちゃえ(笑)。
2万ポンド(当時の交換率で約1000万円)くらいなら、シンガポールでヴィザ待ち滞在中に遣ってもいい、と考えていた。
それでもバースの家を売ったカネは3万ポンドほど余ってしまう。
こちらのほうは、すでに英国から、妻の就職先の大学がつくってくれた口座に振り込み済みで、手をつけることができなかった。
OZで心機一転の再出発をこころみる。
賭博稼業も再開する。3万ポンドは、そのための開業資金だった。
タネ銭以外は、できるだけ過去とのしがらみを断ち切りたい。それが「新生活」をこころざす者の心得であろう。
六根清浄(ろっこんしょうじょう)となり、釈迦の道を歩む。
もっとも賭博は、「欲」そのものなのだけれど(笑)。(つづく)