番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(22)

 総括してみると、英国におけるゲーム賭博のトータルでは、まだずいぶんと浮いていた。

 それでもバースにおける一連の敗北(8か月間ほどつづいたものだった)を素直に認め、撤退して自らに2年間の放牧を課した。ササ針治療はもう充分だろう。

 河岸を替えた南半球で、捲土重来(けんどちょうらい)の賭博勝利を期す。

 破竹の進撃で、シドニーのウォーター・フロントの豪邸を買っちゃる。

 シンガポールで滅茶苦茶な散財をしているわたしが、頭の中に描いた、勝手なシナリオだった。いや、妄想と呼んだほうがよろしい。

 結果から言えば、捲土重来の戦いで、シドニーのウォーター・フロントに独立した豪邸は買えなかった。

 その代わり、ジェッティ―付きのウォーター・フロントのアパートメントをまず賃貸し、とても気に入ったので、のちにそこを購入している。

 ジェッティ―というのは、プライヴェートの桟橋のことだ。アパートメントの庭先から、シドニー湾にそしてその先の太平洋にボートが出せた。

 グリーン・パークのクラブにおけるルーレット卓で、たまたま連日起こったツラ(=片方の目の連続勝利のこと)が、それ以降のわたしの生活のすべてにつながっていた。

 たかが博奕(ばくち)、されど博奕。

 運命を感じるというか、はたまた恐ろしいのか、怖いのか。

 だから博奕は止められない。

       *       *       *       *

 わが一家がOZ(オーストラリアのこと)に辿り着いた1981年、シドニーにもメルボルンにも連邦首都キャンベラにも、公認のカジノはなかった。

 当時、それなりに大きな公認ハウスは、西オーストラリア州のパース(バーズウッド・カジノ)とクイーンズランド州のゴールドコースト(ジュピターズ・カジノ)の二箇所にあるだけ。あとはタスマニアとかダーウィンとかに小舎(こしゃ)がいくつかあった。

 一番近くの公認ハウスまで、850キロ離れている。パースに行くなら4000キロの旅だ。商売とはいえ、さすがに毎週通うというわけにはいかなかった。

 ならば、イリーガルのハウスである(笑)。

 わたしは、シドニーCBD(セントラル・ビジネス・ディストリクト。=東京の丸の内や大手町のようなオフィス街)近くにあるディクソン・ストリートに恰好の非公認カジノをみつけた。

 この非合法ハウスで、のちにわたしの『牌九(パイガオ)』の師となるサミーと出会う。

 当たり前なら、博奕に「師」は不要だ。

 しかし『牌九』はちょっと特殊なゲームで、卓上で飛び交うターミノロジー(=専門用語)もほとんどが北京語か広東語であり、わたしには「先生」が必要だった。

 ロンタンホンメイ。タイピン。チョンクア。ヤット・ドンドン。

 虎頭・屏風にマーティン・ジジュン。

 チャ・ゴン。パッ・ガオ。チャオ・サッサッ。

 突然こんなこと言われても、わかるわけがない(笑)。

 結果から導き出された、現在にいたるまでのわたしの賭博履歴に関連した推論を、次で披露する。(つづく)

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PROFILE

森巣博
森巣博
1948年日本生まれ。雑誌編集者を経て、70年代よりロンドンのカジノでゲーム賭博を生業とする。自称「兼業作家」。『無境界の人』『越境者たち』『非国民』『二度と戻らぬ』『賭けるゆえに我あり』など、著書多数。