番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(24)

 1980年代初頭に、わたしが学び、そしてのちに専攻することになった『牌九(パイガオ)』とは、先述したが打ち手がもつ経験の蓄積だとか技術・技量が、勝敗にそれなりに影響を与える種類のゲームである。

 すなわち運の要素はあるとしても、「強い奴」が勝つ可能性は高い。

 それだけではなくて、なんと『牌九』では、打ち手が庄家(オヤのこと。「荘家」とも表記される)を取れた。

 例外はあっても、一般に賭博ゲームは、「庄家」がアドヴァンテージをもつ構造となっている。

 とりわけカジノで採用される賭博ゲームは、確実に「庄家」(=通常ハウス)側が「確率の優位」をもつ。その「確率の優位」が、ハウスの収入となるのだから、当たり前だ。

 打ち手が「庄家」を取ることができるゲームとは、すなわちその「庄家」をとった打ち手が、通常ハウス側のみがもつ「確率の優位」を握れることと同義であった。

 『牌九』卓には、8ボックスがある。通常各ボックスには、3人の打ち手がベットできる。

 ひとつのボックスは「庄家」だから、「庄家」は最大で残り7ボックス・21人のベットを受けることになる。(ただしマカオの『牌九』卓は、イカサマ防止のため常時ワンボックスが「保険門」として死んでいる)

 21人(マカオでは18人)の「散家」(=コ)の悪意と憎悪とを一身に受けながら、「庄家」は牌を引く。

 気の弱い人ならひっくり返ってしまうかもしれない。しかし慣れるとこれが快感に変わった。

 暴力を介在させない、打ち手同士の「合意の略奪闘争」だった。剥き出しのカネの殺し合いである。

「散家」たちから受ける悪意と憎悪のビームを、「庄家」の身体のなかで「プラスのエネルギー」に転換させ、グリーンの羅紗(ラシャ)に大型の「天九牌」を叩きつける。

「チャッ・ボー、ナ。はっはっは。サッ・サッ・サッと、そこはチャオ。またサッサッサッ。あら、エッサッサァ~。日本人いうて、舐めたらあかでえぇ。どうじゃ、まいったか!」(サッというのは「殺」のこと。チャオは「生=プッシュ=引き分け」という意味)

「庄家」をとって牌を開いた直後に発するこの叫びが、たとえようもなく気持ちいい。

 中脳の報酬系回路を、怪しげな汁が、じゅるじゅると音を立てながら、大量に駆け巡っていく。脳内射精だった。

 そういった快楽という感覚的側面だけではなくて、「強い打ち手」なら勝ちを持続しうる、(A)の技術的側面、(B)の確率的側面という2大条件を満たしてくれるのが、『牌九』というゲームである。

 そんなゲームを知り、そしてその種目に専攻を替えたことによって、わたしは生き馬の目を抜くがごとき賭博ジャングルで、40年も生き凌げたのであろう、と勝手に結論している。

 刺さなければ、刺される。

 殺さなければ、殺される。

 それが、「合意の略奪闘争」の場たる、賭博ジャングルだった。(つづく)

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PROFILE

森巣博
森巣博
1948年日本生まれ。雑誌編集者を経て、70年代よりロンドンのカジノでゲーム賭博を生業とする。自称「兼業作家」。『無境界の人』『越境者たち』『非国民』『二度と戻らぬ』『賭けるゆえに我あり』など、著書多数。