番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(25)

 打ち手の経験の蓄積・技術・技量・能力等が、勝敗結果に影響を与える、とは、言い換えれば、「単純なルール」ではないことだ。すなわちルーレット・BJ(ブラックジャック)・バカラといった種類のゲームとは、基本的な部分で大きく異なる。

『牌九』では、牌の組み合わせが3620通りある。

 その組み合わせのすべてを憶える必要はないのだが、常時100ぐらいの組み合わせを頭の中に描いておかないと、勝負の流れが見えてこない。

 できるだけわかりやすく、『牌九』という「複雑なルール」の賭博ゲームの説明を試みようとも思ったが、いろいろな事情が重なり、時間に制限がでてきたので、一気に話を進めよう。

 1981年にたどり着いたシドニーで、わたしはディクソン・ストリートにあった非合法のカジノをベースとして、『牌九』というゲーム賭博を学んだ。

 前述したが、師としたのはサミーと名乗る、わたしと同年配の中国系の男である。

 サミーは中国系移民社会の裏事情にも通じていた。わたしは『牌九』以外にも、黒社会関連も含め多くのことを彼から学んでいる。

 当時のオーストラリア・ドル(AUD)は、弱り始めた時期ではあったのだが、それでも1AUD=260JPYくらいあったと記憶する。

 イギリスから送金した3万GBPは、6万AUD強に化けていた。

『牌九』を学び出して2か月で、1万AUDが、ディクソン・ストリートの非合法カジノのテーブルの上で、あっという間に溶けた。

 これはしょうがない。挫(くじ)けるものか。

『牌九』という複雑な賭博ゲームを学ぶための授業料みたいなものだった。

 サミーの的確な指導もあり、ゲームのコツを掴みだしたのは6か月ほど経ってからか。

 怯まずに「庄家」をとるようになったのも、この時期だった。しばらくは「行って来い」の状態が続き、1982年末より、勝つことの方が多くなる。

 破竹の進撃が開始されたのは、1983年の春節を過ぎてからだった。

「じゃ、そろそろ本場で打とう」

 と、サミーにマカオに連れていかれた。

 もちろん『牌九』の元祖・本家とも呼べる『 リスボア(澳門葡京酒店=現在のオールド・リスボア))』だった。

 いまではその片鱗さえうかがえないのだが、当時澳門外港から 澳門葡京酒店へ向かう友誼大馬路は、アスファルトが剥がれ、砂ぼこりが舞う道だ。

『リスボア』のすぐ前が、海なのである。

 入り江には無数のシロサギが、羽を休めていた。

 ヒラ場にも『牌九』卓はあったのだが、わたしは奥にある「私人卓(プライヴェート・ルームのこと)」に連れていかれた。

 当時マカオのカジノの高額卓では、原則として現地通貨のMOP(マカオ・パタカ)ではなくて、香港ドルだけを使用していたし、現在でも『金御會』を除けば、そうなっているところがほとんどであろう。

 1983年にHKD(香港ドル)は、USD(米ドル)ペッグ制を採用し1USD=7・8HKDで固定されていた。わたしが最初にマカオに行ったころは1HKD=41JPY前後だった(現在は、1HKD=13~15JPY)と記憶する。

『リスボア』の『牌九』私人卓に脚を踏み込んだとたん、わたしは息を呑み、その次に凍り付き、そして腰を抜かした。(つづく)

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PROFILE

森巣博
森巣博
1948年日本生まれ。雑誌編集者を経て、70年代よりロンドンのカジノでゲーム賭博を生業とする。自称「兼業作家」。『無境界の人』『越境者たち』『非国民』『二度と戻らぬ』『賭けるゆえに我あり』など、著書多数。