世界史の中の日本 本当は何がすごいのか【第3回:日本とロシア】

根室海峡と国後島(変更)

根室海峡と国後島

漂流民がつないだ日本とロシアの歴史


 日本とロシアの最初の関係は、漂流民が漂着するという形がほとんどですが、そのような関係は古くからあったでしょう。日本からのロシア漂着は船頭の大黒屋光太夫でしょう。アリューシャン列島に漂着して保護され、1791年、女帝エカテリーナ2世に謁見しています。その翌年には漂着民を送り届けるという口実でロシア使節アダム・ラクスマンが根室にやってきて、通商交渉を行おうとしています。しかし、これは老中松平定信によって退けられました。

 驚くのは、18世紀の初めに日本人の漂着民がサンクト・ペテルブルクで日本語学習所を開設していますし、半ばになるとイルクーツクに日本航海学校、日本語学校があったということです。こういう機関ができるのは、それだけの需要があったということで、交流はなかなかのものだったのでしょう。

 考えてみれば、日本の北辺はロシアに近接しています。アイヌ民族がロシア側にもいることや、中央アジアのバイカル湖付近に住む人たちのDNAが日本人のDNAに似ているという説も含めて、日本の北辺はユーラシア大陸につながる一つの接点だったのです。

 18世紀末、仙台の津太夫という人物が若宮丸という船で石巻から江戸に向かう途中で遭難、漂流してアリューシャン列島に流れ着きます。この津太夫を伴って1804年、レザノフが長崎にやってきます。このとき津太夫が伝えた話を大槻玄沢が書き、仙台藩でまとめられました。『環海異聞』です。

一貫したロシアの脅威と北方領土問題のはじまり


 このように主に漂流民を媒介としたつながりの中でいくつかの記録史料が残されていますが、それらには一貫した共通性があります。それは日本が常にロシアを脅威と感じていることです。過酷な自然から少しでも豊かな土地を得ようとする本能、あるいは衝動がロシアにはあって、南に出てこようとする侵略性を日本の人々はいち早く感じ取っていた、ということでしょう。

 これはロシアという国家のレベルでは、はっきりとした南下政策となりました。この南下政策は日本にもろに影響し、歴史を刻むことになります。

 アメリカのペリー提督の浦賀来航に対応するように、ロシア使節プチャーチンが3隻の艦隊で長崎に来たのが、南下政策の明確な現れといえましょう。艦隊による威嚇を背景に、1854年、日露和親条約が結ばれましたが、ロシアの侵略意図は明確で、最初から領土の帰属は重要な問題となりました。千島列島は択捉島以南は日本領、それ以北はロシア領、樺太は共同の日露混在の地と定められました。しかし、ロシアの要求によって、1875年、樺太・千島交換条約が結ばれます。千島列島全部を日本領とし、樺太全島をロシア領とすることが定められたのです。

 いま、日本とロシアの間には北方四島の領土問題が横たわっていますが、その根拠となるのがこの条約です。条約からいえば、千島列島全部を日本領とするのが筋です。4島のみの返還というのは日本が大きく譲った要求であることを知っておかなければなりません。

ロシア・ソ連の南下政策が日本に及ぼした影響


 近代になって以後、ロシアの南下政策があって、日本とロシアの関係は軍事的な面のみが露呈することになります。その端的な現れが、1904年の日露戦争でした。日露戦争の意義については、本文で述べましたが、その前提としての日清戦争を知っておくことは必要でしょう。

 日清戦争に勝利した日本は、遼東半島の割譲を受けました。しかし、ロシアが主導して三国干渉を行い、遼東半島を日本から清国に返還させました。さらにロシアは清国と密約を結んで施設権を獲得するなど、両国が結んで日本に対抗する行動を起こします。このことは日本のロシアに対する敵愾心を煽るのに十分でした。日露戦争にはこういう背景があったことも知っておくべきです。

 革命が起きて、ロシアはソ連という社会主義国家になりましたが、南に膨張しようとする南下政策は変わりませんでした。いや、単に領土を侵略するといったことだけでなく、ソ連の南下政策は日本そのものを社会主義化しようとする形をとるのです。戦前、コミンテルンがその方針を打ち立て、日本共産党がその指令を受けて動いたことは、紛れもない事実です。

 このため、押し寄せる共産主義の防御戦として、満州国建国は不可欠でした。もちろん、ソ連は満州国を承認しませんでしたが、日本を守るための生命線として日本が満州国の最大の後ろ盾になったのは当然のことです。

 歴史に「もし」は不要ですが、もしソ連の南下政策がなかったとしたら、とあえて考えると、満州国は発想さえされなかったのではないか、という気がしてきます。

ヨーロッパでもアジアでもないロシア


 政治の問題をさておいて文化の面を考えると、ロシアは不思議な存在です。ユーラシア大陸の真ん中を占めてシルクロードを支配、アジアとヨーロッパを結んだのは、かつてはモンゴル帝国でした。そのモンゴルのもとでモスクワはつくられています。そして、モンゴルが没落すると、東と西を結ぶ役割はロシアが取って代わることになります。

 この一事を見ても、ヨーロッパでもなくアジアでもないロシアの性格が浮かび上がってきます。そしてこのことは、日本の文化に影響を与えました。

 中でも影響が大きかったのは文学です。ドストエフスキー、トルストイ、ツルゲーネフ、チェーホフ──明治から大正、昭和初期にかけて活躍した日本の作家で、ロシア文学の影響を受けなかった作家を探すのは難しいほどです。日本の近代文学の確立にロシア文学の影響を欠かすことはできません。

 戦争と平和の概念、人間の原罪意識といったヨーロッパの思想を、日本はロシアを通して伝えられ、吸収していったのでした。

 東と西を結ぶ大きな文化的役割をロシアが負っていることは、忘れてはならないことだと思います。

(出典/田中英道著『[増補]世界史の中の日本 本当は何がすごいのか』育鵬社)

【田中英道(たなか・ひでみち)】
東北大学名誉教授。日本国史学会代表。
著書に『日本の歴史 本当は何がすごいのか』『[増補]日本の文化 本当は何がすごいのか』『日本史5つの法則』『日本の戦争 何が真実なのか』(いずれも育鵬社)ほか多数。

[増補]世界史の中の日本 本当は何がすごいのか

他国の歴史と比べることで見えてきた日本の“いいところ"。




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