世界文化遺産から読み解く世界史【第19回:インカ帝国の首都――クスコ(続)】

ポトシ銀山(ボリビア)加工

ボリビアのセロ・リコ銀山(ポトシ山)

世界の銀生産の半分を占めていたポトシ銀山の富

 中南米の歴史を見ると、この地を侵略し、植民地化したヨーロッパが、その後いかに発展したか、中南米から収奪した金銀財宝が、いかにヨーロッパを豊かにさせたかがわかるのです。  その一例が、ポトシ銀山です。ポトシ銀山はボリビアにあります。ポトシ市街は、標高四4070メートルの高地にあります。1545年に、ポトシ山で銀の鉱脈が発見されたためにその山麓につくられた町です。セロ・リコ(富の山)と呼ばれたポトシ山は17世紀の半ばまでに、1万6千トンの銀をスペインに送りました。スペインがこれを独占したのです。当時、世界の銀生産量の半分をこのポトシ銀山が生産していたといいます。  その恩恵に浴したポトシには、最盛期に20万の人々がいました。それだけの労働力を必要としたわけです。先住民やアフリカ人奴隷が過酷な採掘労働を行っていました。  しかし、18世紀から19世紀になると、銀の産出量が激減し、急速に衰退してしまいました。

ポトシ銀山と石見銀山は何が違ったのか

 ポトシ銀山が大量の銀を産出し始めた頃、ちょうど日本では石見銀山(島根県)が開発されました。1526年、博多の豪商神屋寿貞によって本格的に開発が始められたのです。灰吹法という製錬技術によって、16世紀から17世紀の前半にかけてその全盛期を迎えました。この銀の大半が世界に輸出されて、当時の世界の銀産出量の3分の1を占めていたといわれます。この石見銀山の銀を世界に広めたのはオランダでした。オランダがその銀を独占しました。  しかし、もちろん、オランダが日本を占領していたわけではありません。石見銀山の開発も経営も日本が行っていました。  この、ポトシ銀山と石見銀山の対照性が、中南米と日本の違いを象徴しています。  スペインは、イエズス会の宣教師による布教という形で、日本にその触手を伸ばしていました。いつでも軍隊を派遣できる状態ではあったわけです。フィリピンまではそれが成功しました。しかし、日本にはそうすることができなかったのです。それは、日本が銃を持った、しかも、瞬く間に大量の銃を自らの技術でつくり上げてしまったということがあったのです。 (出典/田中英道著『世界文化遺産から読み解く世界史』育鵬社) 【田中英道(たなか・ひでみち)】 東北大学名誉教授。日本国史学会代表。 著書に『日本の歴史 本当は何がすごいのか』『[増補]日本の文化 本当は何がすごいのか』『[増補]世界史の中の日本 本当は何がすごいのか』『日本史5つの法則』『日本の戦争 何が真実なのか』『聖徳太子 本当は何がすごいのか』『日本文化のすごさがわかる日本の美仏50選』ほか多数。
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