連載小説 江上剛『一緒に、墓に入ろう。』 Vol.19 】 骨壺の傍らで麗子のセックスに興奮したのもつかの間……
メガバンクの常務取締役執行役員にまでのぼりつめた大谷俊哉(62)。これまで、東京で勝ち馬に乗った人生を歩んできたものの、仕事への“情熱”など疾うに失われている。プライベート? それも、妻はもとより、10数年来の愛人・麗子との関係もマンネリ化している。
そんな俊哉が、業務で霊園プロジェクトを担当している折、兵庫県丹波にある実家の母が死んだ。
地元で暮らしてきた妹は嫁いだ身を理由に、墓を守るのは俊哉の役目だと言って譲らない。妻は田舎の墓に入りたくないと言い出す。
とりあえず、納骨までは母の遺骨を東京で預かる羽目になった。
順風満帆だった大谷俊哉の人生が、少しずつ狂い始める……
「墓じまい」をテーマに描く、大人の人生ドラマ――
第三章 麗子の深情け Vol.19
「お疲れさま」
麗子が笑みを浮かべて、玄関を開けてくれた。
麗子は、真っ白な膝丈まであるゆったりとしたチェニックを頭からかぶるように着ている。中にはぴったりと体にフィットした濃いブルーのタイツを履いている。
「ありがとう。まったく、疲れたよ。葬式ってのは実に面倒だな」
俊哉は靴を脱ぎ、上がろうとする。
「ちょっと待って」
慌てた様子で部屋の中に戻っていく。
俊哉は、仕方なく脱ぎかけた靴をもう一度、履き直した。
「早くしてくれよ。ビールを飲みたいんだ」
先ほどの新幹線の中での小百合の罵りが、まだ頭の中で響いている。
怒鳴り返そうと思ったが、他の乗客の手前、それもできなかった。
そのためだろうか、喉の奥にネバネバした嫌なものがたまっている気がするのだ。
これをビールで早く洗い流したい。
しかし、おかしなものだ。
妻である小百合には、あれほど遠慮気味に対応するのに、愛人の位置づけの麗子には身勝手な振る舞いができる。
これは「なぜ男は浮気をするのか」という命題に突き当たることかもしれない。
動物の雄は、本来、子供が出来れば、子育ては雌に任せて、次の雌を求めて放浪し始める。
子孫を多く残すためにはその方が良いDNAを残す確率が高いのだろう。放浪しつつ、雄同士の生存競争に勝ち抜いた雄こそ強いDNAを持っているのだから。
ところが人間は制度的に一夫一婦制に縛られて、一度の婚姻で生涯添い遂げることを約束させられることになった。
これは男女の婚姻が良きDNAを残すよりも社会の維持という役割を担うことになったからだろう。だから子をなさない夫婦も成り立つわけだ。同棲婚も含めて。
だが愛人は違う。なかなか愛人との間に良きDNAを受け継ぐ子供を作るわけにはいかないが、浮気は、雄本来の雌を求めて放浪するという習性を充たしてくれるのだ。だから愛人との関係では、強い雄を演じることができる……。
「お待たせしました」
麗子が小さな皿を持っている。盛り塩がしてあるようだ。
「それは塩か?」
「そう、お葬式帰りでしょ。お清めしないといけないんじゃないの。ちょっと外に出てよ」
麗子が外に出るためにサンダルを履く。
「しょうがないな。早くしてくれよ」
俊哉も玄関から外に出る。
麗子は、塩を摘まむと俊哉の胸の辺りや足下に振りかけた。
「少しだけにしてくれよ」
スーツに付いた塩を手ではたく。
「さあ、これでいいわね。はい、どうぞ」
麗子が玄関を開け、俊哉が中に入る。
「ビール、くれないかな。喉が渇いたよ」
俊哉はリビングの椅子に落ちるように腰掛ける。そして骨壺の入った紙袋をテーブルに置く。
「それ、なぁに。お土産?」
麗子がビールとつまみのウドのきんぴら、鰹の角煮を小鉢にいれて運んでくる。
こうしたちょっとした酒のつまみを作るのが麗子は上手い。ビールも自宅用のサーバーから注ぐので、麗子の店で飲む生ビールと変わらない美味しさだ。
俊哉は、ビールをぐぐぐと喉を鳴らしながら、飲んだ。ほろ苦い液体が、喉から胸にかけて詰まった澱をきれいさっぱり洗い流してくれる。
「プハーッ」思い切り、体内に籠った瘴気を吐き出す。
「土産じゃないよ」
麗子が紙袋の中を点検し、「あらっ」と驚く。
「これひょっとしたら骨壺じゃないの」俊哉を見つめる目が、大きく丸くなっている。
「そう」
一言だけ言い、鰹の角煮を食べる。甘辛い出汁が沁み込んでいい味を出している。日本酒が欲しくなる。
「なぜ、どうしたの?」
麗子は、骨壺の入った木箱をテーブルの上に置く。
豪華な葬列を想起させるような錦糸銀糸が織り込んだ布にきっちりと包まれた木箱は、いかにも魂が入っているように見える。
「いろいろあってね。おいおい説明するけどさ。四十九日までうちで預かることになったんだよ。ところがさ、新幹線の中で、俺が銀行に寄るからというと、キレちゃってね」
情けない顔になる。
「怒ったの? 奥さん?」
「そう、飛び切りね。それでお袋と二人きりになるのは嫌だからこれを銀行に持って行け、東京見物させろって言ってさ。それでどうしようもなくて、ここに持ってきたわけさ」
俊哉はグラスのビールを飲み干し、ウドのきんぴらを口にする。しゃきしゃきとした食感が心地よく、わずかな苦味を利かした味が刺激的だ。
麗子のマンションに来てよかったとつくづく思う。
「お母さん、ここじゃ落ち着かないわね」
麗子が骨壺の入った木箱をリビングの棚に置く。棚には花、そのの下のサイドボードにはワイングラスなどが飾られている。この部屋の中を全て見渡せる場所だ。
「お母さん、お酒、飲めるの?」
「飲めるよ。ワインや日本酒が好きだったな」
俊哉が返事をすると、麗子はキッチンに行き、クーラーボックスから白ワインのシャブリを持ってきた。
「ビールの次にワインにするのかい?」
俊哉の疑問には何も答えず、サイドボードから小ぶりのワイングラスを取り出すと、それにシャブリを注いだ。
そして骨壺の入った木箱の前に供えて、両手を合わせ瞑目すると、しばらく無言で頭を下げた。
俊哉は、麗子の姿を見て、激しく胸を揺さぶられるような感動が込み上げてきた。
涙が止まらない。葬儀の最中も、ここまで来る間も涙は一滴も流れ出なかった。
それがどうしてここでとめどなく溢れてくるのだ。不思議でならなかった。
高校生時代のことを思い出す。
俊哉が眠い目をこすり、起きて来る。とてつもなく寒い。
外はちらちら雪が待っている。高校まで自転車で通っているのだが、気が滅入る。
「寒いなぁ」
俊哉が朝食を作っている母澄江に愚痴る。
「味噌汁をしっかり食べていけ。三里先まで温かい言うてな。体が芯から温かくなるんや」
母澄江が、食卓に就いた俊哉をにこやかな笑みで励ます。
さらに思い出は高校生時代から中学生時代へと遡る。
野球部でボールが腹に当たり、倒れてしまった。どういうわけか体が熱を持った。緊急で入院した。手術はしなくて良かったが、母澄江は、俊哉の傍で寝ずの看病をしてくれた。ありがとう、お袋。
どんどん思い出が蘇り、俊哉は中学から小学生、幼稚園へと還っていく。
「お袋がいたから、俺がおるんやなぁ」
俊哉は目を開け、思わず呟く。
「どうしたの? 急に関西弁になったりして……。泣いているのね」
「ああ、お袋との思い出が次々と浮かんできて、どうしようもないんだ。あまり親孝行もしない悪い息子だったなぁ」
「じゃあ、ここに来て一緒に手を合わせましょう」
麗子に言われるまでもなく立ち上がると、麗子の傍に立って、手を合わせ、深々と頭を下げた。
「お母さん、なんて思うかしらね」
「なぜ?」
「妻でもない私とこうやって並んで拝んでるのを見て、不思議に思われないかしら」
麗子がうっすらと笑みを浮かべた。
「ありがとう、麗子」
俊哉は、麗子の体に両腕を回し、強く抱きしめた。嫌がるでもなく麗子は、俊哉の唇に自分の唇を強く押し付けた。
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