ウクライナの非共産化に大きな効果をあげた「レーニン像撤去運動」

<文/グレンコ・アンドリー『ウクライナ人だから気づいた日本の危機』連載第3回>

共産主義の謀略と日本の被害

 ウクライナと同じように日本も共産主義から多大な被害を受けている。1930年代から東アジアの共産化を目指していたソ連にとって、大日本帝国は最大の憎悪の対象であった。それ故、ソ連は如何なる手を使っても日本を壊滅させたかった。そのために日本を戦争に引きずり込み、日本の国力を弱小化させる必要があった。  そこで、ソ連は様々な謀略をめぐらせたのである。まず、スターリンと毛沢東は日本と中国国民党を戦わせるために、1936年に蒋介石を捕え、日本と戦争する約束をさせた上で、彼を釈放した。その翌年に支那事変が起こった。同時に、日本国内に共産主義勢力の工作員が強硬路線を主張し、戦争を扇動していた。しかし、この事変の所為で日本の国際的な立場が悪くなったとは言え、日本自体を潰し、共産化するには不十分だった。  そのため、次にソ連は日米戦争を仕掛けたのである。アメリカの中枢部には、ソ連が率いるコミンテルンの工作員が大量に入り込んでいたことは既に明らかになっている。また米大統領のルーズベルト自身も共産主義シンパであり、スターリンに憧憬の念を抱いていた。これを示すが如く第二次世界大戦以前も戦時中においても、ルーズベルトが実行していた政策は全てスターリンに有利なものばかりだった。  この状況で、ソ連に操られていたアメリカは日本を挑発した。それに対して、強硬路線を扇動していた国内の隠れ共産主義者に煽られ、日本は挑発に乗ってしまい、日米戦争が勃発したのだ。つまり、この戦争も完全なソ連の謀略によって起こったものであると言える。この戦争で日本は320万人の同胞を失ってしまった。亡くなった方々は共産主義の完全なる被害者と言ってもよいだろう。国民だけでなく、国家も大きな打撃を受け、日本領土の多くが奪われた。  また7年間日本の占領統治を行っていたGHQにも共産主義シンパが多く、GHQによる日本人の洗脳工作も共産主義者の謀略にほかならない。GHQを通して共産主義者は日本の国家体制を大きく歪めた。日本の伝統や国体、または国際常識を無視した、理想だけを語る憲法が押し付けられた。当然このような憲法に基いて、国家が順調に発展するわけがない。  さらに、日本人の精神を潰すための洗脳工作が行われ、日本人に平和ボケ、自虐史観や贖罪意識が植えつけられた。公職追放によって能力の高い人が追い出され、その代わりに多くの共産主義者が公職に就いた。  恐ろしいことに、この状況は戦後から73年経過後も殆ど変化が見られない。現在でも日本人は教育やメディアを通して、共産主義の洗脳を受け続けているのだ。つまり、この73年間、日本人は連綿と洗脳され続け、日本もまた共産主義者に蝕まれている。戦前の謀略と合わせれば、日本は既に約80年間にわたり共産主義から被害を受け続けている。

赤い残党を駆逐せよ

 以上のように、日本とウクライナは共産主義勢力から甚大な規模の被害を受けている。それにもかかわらず両国は共産主義に対して非常に寛大であり、連綿と被害を受け続けているのに無抵抗である。  しかし、この状況をそろそろ終息させるべきではないだろうか。ウクライナは既に非共産化の動きを見せ始めた。2014年にロシアはウクライナへ侵略したが、前述した通り、この侵略も共産主義による被害の一つである。ウクライナ人の意識の中では、今の戦争は、ロシア帝国主義(大ロシア主義)との戦いでもあるが、同時にこれは共産主義に対する戦いであることに間違いはない。  実際に今のロシアは完全にソ連のお陰で存在している国家であり、現在のロシア人の歴史認識はソ連の歴史認識である(詳細は別の機会で)。また、法的にも現在のロシア連邦は自分のことをソビエト連邦の後継者と名乗っており、国連安全保障理事会の常任理事国の席をソ連から受け継いでいる。またロシアの大統領であるプーチン本人はソ連の国家保安委員会、つまりKGB出身である。現在のロシア連邦はKGBに乗っ取られて支配されているので、共産主義国家ソ連の延長線であると言っていいだろう。  だから、現在のロシアとの戦争は共産主義に対する戦争であるという認識は、形式上なら異論はあり得るが、本質的には正しいものであろう。そして、この戦争を契機として、ウクライナ人はようやく共産主義の恐ろしさに気付き始め、非共産化の必要性を理解する人が次第に増えている。

レーニン像撤去運動

 非共産化の最初の大きな活動とは、レーニン像と記念碑の撤去だった。2013年末の時点、ウクライナ各地にレーニンの記念碑が2000基以上立っていた。それが、2018年秋の時点、ロシアに占領されている地域以外、ウクライナにあったレーニン記念碑は殆ど撤去された(企業や個人の私有地など、目立たない場所での銅像や彫刻はまだ残っているのだが)。  厳密に言えば、レーニン像撤去の開始時期は、ロシアによる軍事侵略が始まった時点ではなく、その直前にウクライナで起きていた反政府デモの最中であった。しかし、当時のウクライナ政権は親露売国政権であり、ウクライナにおけるソ連の名残そのものであった。あの反政府デモも、ある意味で対露独立戦争の諸段階だったとも言えるので、大きな流れとしては、独立心や民族アイデンティティの復活の時期は、ウクライナ非共産化の初段階であるレーニン像撤去開始時期と重なる。  さて、レーニン像撤去運動は2013年12月8日に始まった。その日、キエフ中心広場の一つだったベッサラビア広場に面していたレーニンの記念碑(キエフで最も有名だったレーニンの記念碑)がデモ隊によって破壊された。その破壊に対する反応は独立派勢力の中でも複雑であった。何故なら、穏健な独立派勢力の中では、ソ連にシンパシーを持っているウクライナ国民をなるべく刺激しないという方針は主流であったので、レーニンの記念碑(しかも一番有名なもの)の破壊は逆効果をもたらし、反政府デモの印象が悪くなり、それが勢いを失うのではないかという恐れもあり、それに賛同しない人もそれなりにいた。  しかし、次第に社会の雰囲気が変わり、レーニン記念碑の撤去は過激な行為ではなく、独立国家のあるべき行為と脱ソ連の象徴となった。2013年12月8日から、2014年2月21日の政権交代の間に、他に18箇所のレーニン記念碑が撤去された(正式に、政権交代そのものは2月22日だったが、21日には既に政権が事実上、機能を停止し、活動家が大規模なレーニン記念碑撤去を始めた)。  当然、当時の政権側からすれば、それは犯罪行為であり、反政府活動家が逮捕の恐れを承知の上で、撤去を実行したのだ。政権交代後、行政の妨害や弾圧の恐れはなくなったので、2014年2月21日から28日まで、315基のレーニン記念碑が撤去(破壊)された。そのころはレーニン記念碑はウクライナ人を大量に殺した共産主義の象徴であり、撤去するべきだと言う認識が社会に浸透した。この運動は「レーニン落ち」(ウクライナ語ではленінопад)と名付けられた。  2014年3月以降、勢いが減ったがレーニン記念碑撤去運動が続いた。2014年年末まで、後200基が撤去された。勢いが減った理由は当然、民族アイデンティティの後退や運動員の怠慢ではない。実は先に撤去され始めたのは大きな都市の広場など、もっとも目立っている場所にあった記念碑だった。  もっとも目立っている場所の記念碑が全て撤去された後、段々運動員はさほど目立っていない場所の撤去に取り掛かった。置かれた場所の目立つ度が減るに連れて、一ヶ月あたりの撤去件数も減った。当然全てを撤去するのは目的であるが、さほど目立たない場所の記念碑を撤去する意欲は、目立っている場所と比べると低い。そして、全てのレーニン像を探すことも中々大掛かりな作業でもある。  それでも、2015年には約300基、2016年には500基のレーニン記念碑が撤去された。レーニン記念碑以外にも、他の有名な共産主義者の記念碑も撤去された。全体的に、レーニン記念碑の撤去運動は三段階を経ている。 第一段階は、運動員は政権の禁止を押し切って、行われていた撤去。 第二段階は、政権交代後、政府や行政の容認の上で、運動員が行った撤去。 第三段階は、反共法(詳細は次回)に基いて、行政そのものが主体になって行っている撤去。  第三段階は現在でも続いている。しかし、たまに撤去が困難の場合もある。例えば、ソ連にシンパシーを持つ親露住民の多い自治体においては、反対者が多いので撤去が難しい。住民の反対があっても、法的義務なので、その反対を押し切ってレーニン記念碑の撤去を実行することも多いが、やはり住民の反対を正面から突破せずに、行政は撤去を延期するという逆の例もある。  当然ロシアに占領されているウクライナ領土、つまりクリミア半島とドネツィク州、ルハーンシク州の一部においては、レーニン記念碑は全て健在である。  そして、ロシア政府はウクライナで行われているレーニン記念碑撤去活動を「歴史を侮辱する蛮行」という風に猛批判している。また、ウクライナ国民の一部は未だにソ連の呪縛から解放されず、ソ連の常識を引き摺っているので、レーニン記念碑の撤去に反対している。  またこれが無意味な行為だと言う人もいる。確かに、唯物的な考え方からすれば、記念碑なんて石の塊に過ぎず、それが破壊されたら何が変わるのか、と思われるかもしれない。  しかし、独立ウクライナにおいて、どこでも当たり前のように立っているレーニン記念碑は、精神的な足かせであったと言えよう。あたかも「この国は共産圏なんだ」と言い張っているかのように。だからその撤去は、脱ソ連か、非共産化、脱ロシア化の大きな意味を持っている。 【グレンコ・アンドリー】 1987年ウクライナ・キエフ生まれ。2010~11年、早稲田大学へ語学留学で初来日。2013年より京都大学へ留学、修士課程修了。現在、京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程で本居宣長について研究中。京都在住。2016年、アパ日本再興財団主催第9回「真の近現代史観」懸賞論文学生部門で「ウクライナ情勢から日本が学ぶべきこと――真の平和を築くために何が重要なのか」で優秀賞受賞。月刊情報誌 『明日への選択10月号』(日本政策研究センター)に「日本人に考えてほしいウクライナの悲劇」が掲載。
1987年ウクライナ・キエフ生まれ。2010~11年、早稲田大学へ語学留学で初来日。2013年より京都大学へ留学、修士課程修了。現在、京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程で本居宣長について研究中。京都在住。2016年、アパ日本再興財団主催第9回「真の近現代史観」懸賞論文学生部門で「ウクライナ情勢から日本が学ぶべきこと――真の平和を築くために何が重要なのか」で優秀賞受賞。月刊情報誌 『明日への選択 平成30年10月号』(日本政策研究センター)に「日本人に考えてほしいウクライナの悲劇」が掲載。
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