東北の一村長に学ぶ「生命尊重」――深沢晟雄の信念
<文/佐藤芳直:S・Yワークス代表>
公の「憤」を抱くリーダー
時代を創る人間がいます。それまでの常識、あるいは諦めを根こそぎ変革しようとする人間です。時に思うのですが、成功する人間は能力ではなく「性格」で成功します。「成功する性格を持っている」と言った方がよいかもしれません。 では、その第一は何か? 高い「理想」を抱いていることです。「理想」は「夢」とは違います。「現時点で考えられる最高の状態」、それを「理想」と言います。 高い理想を抱いていると、必ず「現実」にぶつかります。その時に第二の「性格」が発動します。描いた理想に立ちはだかる壁に絶望するのではなく、「憤」を抱くのです。 なぜこの壁を突破できないのだろう? どうすれば壁の向こう側へ行けるのか? 努力を発見すべく強烈に自問自答を繰り返す。「憤」、つまり「憤り」を現実に対して感じ、何とか前進しようとする。 岩手県沢内村(現西和賀町)は、その昔、豪雪の村で、多病多死貧困の村として全国でも最悪の生活環境にありました。特に新生児死亡率は全国最高値と言ってよい0・08、つまり1000人の新生児が生まれると、80人が亡くなる状況にあったのです。 何と言っても全国有数の豪雪地帯ですから、冬になれば交通が途絶し、完全に孤立します。その上に無医村ですから、村民が「まるで石ころのように」死んでいくのです。 その村に、「新生児死亡率をゼロにする!」と遠大な理想を掲げたリーダーが登場します。 深沢晟雄(ふかさわまさお)村長です。 1905(明治38)年に沢内村に生まれ、1957(昭和32)年に村長職に就きました。そして、我が村の現実に暗然たる思いにとらわれたことでしょう。 遠大な理想、それを言葉にして「旗」として掲げる。そして、その言葉、旗へと一つひとつ眼前の課題を解決しながら近づいていく。 当時、誰もが冷笑を浮かべた旗へと、広報を軸に一体化していくその姿は、時代を超えて私たちの胸に迫る何かを感じさせます。 もちろん困難な現状が壁として立ち上がりますが、深沢村長は絶望せず旗を降ろすこともせず、その壁に憤りをもって挑み続けます。リーダーとは「公の憤」を持つ人であると、一人の村長の姿に教えられるのです。そして、そのような人間を天は見捨てないことも。 1960年代、日本が高度経済成長へと突き進んだ時代には、公の憤を抱くリーダーたちが日本各地に生まれ、貧しく厳しい環境にある「地方」を変革しようと闘っていました。豪雪・多病多死・貧困の三重苦
一人の人間が為せること。歴史に学ぶ中で、その偉大さを教えられます。1961(昭和36)年、一人のアメリカ大統領が就任しました。ジョン・F・ケネディです。 ケネディが就任演説で述べた、好きな言葉があります。 「国が諸君のために何を為すのかを問い給うな。諸君らが国のために何を為すのかを問い給え」 つまり、国をよくするのはあなた方一人ひとりだ、国に何かしてもらおうと期待するのではなく、自分たちが当事者として何を為すべきかを自問自答してほしい。民主主義の深淵を語る、理想的メッセージだと思います。 深沢晟雄は、まさにこの言葉を地でいった人物です。彼が村長を務めた沢内村は、日本有数豪雪地帯です。たったひと晩で、1メートル10センチもの積雪を記録したこともあるようです。当時、県都の盛岡からはバスで3時間半。冬場は豪雪で道が閉ざされるので、完全に孤立します。 かつて沢内村は、豪雪、多病多死、貧困の三重苦に苦しめられていました。極寒の冬、毎日のように赤子や幼児が亡くなっていく。埋葬するには死亡診断書が必要です。しかし沢内村は無医村だったので、死亡診断書をもらうことができません。 そこで子どもが亡くなると、父親は子どもを背中にくくりつけ、医者のいる隣町までひと晩かけて歩いていったといいます。明け方に病院に着くと、病院が開くまで待たなくてはいけません。道端に冷たくなった我が子を抱えて座っていると、一人、また一人と、沢内村の父親が子どもを抱いてやって来る。みんな病院の前に座って、冷たくなったわが子を抱えている。それが普通の光景だったと古老に聞きました。 当時の乳児死亡率のデータが残っています。新生児1000人あたり、何人が乳児(1歳未満)で亡くなったかという数字です。当時、岩手県は乳児死亡率が最も高い県でした。日本の平均が43〜44人の時代、岩手県は66人でした。その中でも沢内村の乳児死亡率は80人にのぼります。 つまり、赤ん坊が1000人生まれると、80人亡くなるということです。乳児死亡率が全国ワーストの岩手県の中でも突出していました。 ところが、深沢が村長になったとたん、乳児死亡率が急激に下がります。就任した1957(昭和32)年は70人でしたが、わずか2年で約3分の1まで減少させ、全国平均以下になります。そして1962(昭和37)年、村長に就任して5年で乳児死亡率ゼロを達成します。これは当時の全市町村の中で初めてでした。 つまり、日本で最も乳児死亡率の高かった村が、一人の村長によって、日本で初めて乳児死亡率ゼロの村になったのです。その功績から、深沢のことを「命の村長」と呼ぶ人もいます。 深沢晟雄は1905(明治38)年、沢内村で生まれました。東北帝国大学を出て、満州、台湾に渡ります。帰国後、1954(昭和29)年に、請われて沢内村の教育長に就任しました。当時の沢内村は、先ほど述べたように、豪雪、多病多死、貧困の三重苦の村でした。 請われて村長になった深沢は、一つのことを胸に刻みます。 生きていてよかったと思える村にしたい。 「この村に生まれてよかった」ではなく、「この村で生きていてよかった」です。生きる。その命が生を受け亡くなるまで、健やかに生を受け健やかに老いていく。そんな理想を掲げたのです。 そのためには何をすればよいのか。 乳児死亡率をゼロにする。 深沢は「乳児死亡率をゼロにする」という大目標を掲げました。そして、意外に思われるかもしれませんが、乳児死亡率をゼロにするためにお年寄りに対する手厚い保護を始めるのです。 お年寄りに対する手厚い保護。60歳以上の医療費無料化。 おじいちゃん、おばあちゃんが幸せに生きている村にならなければ、子どもを優しく育てようとは思わないだろう、そう考えたのです。貧しい沢内村では、父、母は一年中働きずくめで、乳児の面倒は祖父母に委ねられます。まずはその祖父母がこの村で生きていてよかったと思えること。1960(昭和35)年に65歳以上の医療費の無料化に踏み切ったのも、この考えが背景にあったからです。「国がやらないなら私がやりましょう」
国が老人福祉法を改正し、70歳以上の医療費が無料化されるのは、1973(昭和48)年のことです。沢内村は13年も先駆けています。しかし早過ぎたのでしょう、当時は風当たりが強く、国から国民健康保険法違反であると地方裁判所に提訴されています。つまり、国民健康保険法で半額負担と決められているのだから、村が勝手なことをするな、ということです。 その時に深沢はこう言ったそうです。 「沢内村がこれをやらなければ住民が生活できないものを、これをやって裁判されるなら受けて立ちましょう。憲法に照らして、わたしは絶対に負けない」 「わたしはね、そんなことはまったく意に介さない。医師会が行政訴訟を起こしても引っこまない。そもそも、税金を基準以上に高くすることは違法であっても、自治体の事情によって住民のために安くすることのどこが悪いんだ。これは自治体の自由でしょう。限界を越さない限りにおいては、国家といえども拘束すべきものじゃない。本来は国がやるべきことをやっていない。だから沢内がやるんだ。国は必ずあとからついてくる」 (及川和男著『村長ありき―沢内村 深沢晟雄の生涯』れんが書房新社) 65歳以上無料化をした翌年には、60歳以上の無料化、そして満1歳以下の乳児の医療費無料化にも踏み切ります。その様子を見て、国は提訴を取り下げます。そして今度は国が、高齢者の医療費無料化にかじを切っていきます。 これはまさにケネディの、「国があなた方のために何をしてくれるかを問うな、あなた方が国のために何ができるかを問いなさい」という言葉を、一人の村長がやってのけたということです。 彼はこうも言っています。「まるで石ころのように死んでいく。まるで石ころのように、豪雪で、貧困の中で、自分たちの村人が死んでいく。それに対して、国が何もしてくれないのであれば、国を頼っても仕方ない」(深澤晟雄資料館資料) 人には頼らない、国にも頼らない。自分たちでやるのだ。それが彼の信念でした。 歴史的な事件、強いリーダーの出現には、必ず「憤」があると思います。「公」の憤が最大のエネルギーを生み出すのです。 深沢の「憤」は、多病多死、豪雪、貧困に対する「憤」でした。憤るから理想を見つけようとします。「公」の憤が理想へと駆り立てる最大のエネルギーを生み出します。 これでは、何のために生まれたのか分からない。何のために命があるのか分からない。命を守るのは行政の責任である。自分が行政の責任者であるなら、自分で解決するしかない。 私たちは高齢化社会、GDP減少などの問題に対して「仕方ない」と言いがちです。人手がないから仕方ない、忙しいから仕方ない、世の中の風潮だから仕方ない。しかし、優れたリーダーに、「仕方ない」という言葉はありません。どんな無理難題でも、道筋をつけてみせる。それがリーダーたる者だと思います。 優れたリーダーには「仕方ない」という言葉はない。 私は、現地の深澤晟雄資料館に何度も足を運び、当時、村役場で働いていた方々の話も拾い集めました。しかし、「仕方ない」という言葉は、深沢の言葉から一度も拾うことができませんでした。「仕方ない」と誰もが諦める現実を、どう「憤」、つまり革新のエネルギーに変えるか。それがリーダーの資質であると、深沢の姿から教えられます。 【佐藤 芳直(さとう・よしなお)】 S・Yワークス代表取締役。昭和33(1958)年宮城県仙台市出身。早稲田大学商学部卒業後、船井総合研究所に入社。以降、コンサルティングの第一線で活躍し、多くの一流企業を生み出した。平成18(2006)年同社常務取締役を退任、株式会社S・Yワ ークスを創業。30年以上に渡るコンサルティングでは、歴史観、そして歴史の中に観る日本の強さを学ぶことこそ、企業の強さを生み出す根源であると唱えている。また、人間の教育は歴史に学び、その歴史の中から未来に手渡す種を探し出すことだ と語る。その考え方には多くの熱烈なファンがおり、年間300回以上の講演会には、多数の教育者、行政関係者、そして父親、母親の姿がある。最新刊は『日本近代史に学ぶ 日本型リーダーの成功と失敗』(育鵬社)。
『日本近現代史に学ぶ 日本型リーダーの成功と失敗』 危機に直面した時、日本のリーダーたちはどう思考、決断、行動したか? リーダーを目指すすべての人に贈る“歴史の教訓”! |
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