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フリーランスの王・株本祐己「フリーランスが活躍できる社会にしたい」。“フリーランス集団”というまったく新しい組織の形

 テレビやラジオといったオールドメディアに代わり、動画メディアの勢いが止まらない。特にYouTubeは、国内月間アクティブユーザー数7,000万人を超える。多くの人が気軽に動画を配信できるようになり、YouTubeチャンネル数も増加。生き残りをかけた激戦が続くなか、YouTubeでの発信力も活用しながら、事業の成功を収めている時代の革命家たちに迫る。  インタビュアーは、出版プロデューサーでビジネス書作家の水野俊哉さん。水野さんは出版プロデューサーとして数々のヒット作を世に送り出し、自らも作家として多くの書籍を出版している。  今回は、フリーランスを組織してWebコンサルティング事業を行うStockSun株式会社の創業者の一人である株本祐己さん。株本さんはYouTubeで「年収チャンネル」を立ち上げ、“フリーランスの王”との異名を取る起業家・実業家だ。自身の経験をもとにフリーランスや副業の働き方を発信し、自由な生き方を提唱している。

トラブルが起きても続けられたのは仕事が「好き」だから

水野:現在はStockSun株式会社の代表取締役を辞任して同社の取締役を務めながら、多くのコンサル動画に出演する人気YouTuberという顔もあわせ持つわけですが、大学3年生からWEBマーケティング会社、バリュークリエーション株式会社にインターンとして入ったのが始まりだと聞いています。 株本:その頃は起業する気なんて全然なくて、バリュークリエーションに入ったのも東日本大震災がきっかけでした。大学2年の終わりに震災があって、その影響で3年の始業が1か月遅れたんです。  急にひと月暇になってしまってどうしようかと。当時、家の近所のしゃぶしゃぶ屋でアルバイトをしていたのですが、「新しいことをするタイミングかな」と感じました。インターンで働けば経験も給料ももらえる。そうして見つけたのが、ベンチャー企業のバリュークリエーションだったんです。 水野:インターンで2年、その後、正社員として3年勤務していますが、主にどんな仕事をされていたんですか? 株本:私がインターンで入ったときのバリュークリエーションは、5人くらいしかいない小さい会社でした。その中で私はWebメディアの立ち上げに従事していました。Webメディアは広告掲出によって利益を出していくわけですが、失敗したとしてもダメージが少ない。意識が高い学生にトライアルさせてみるのにちょうどよかったのだと思いますね。 水野:しかし、バリュークリエーションではかなり苦労があったそうですね。 株本:大変だったのですが、乗り切れたのは中学・高校と体育会系の部活に所属していたからかもしれません。どんなことをされても「やり抜く根性」みたいなものが備わっていたのだと思います。さまざまなトラブルや嫌なことがあっても、「自分の中でどうにか消化していこう」という気持ちは変わりませんでした。 水野:ともすればつらい環境も、自分にとっては重要なことだと思っていたんですね。 株本:何より仕事が楽しかったんですよ。好きだったので寝る間も惜しんで仕事をして、勝手に業務経験が増えていった感覚ですね。だから成功するためには「自分のやっていることを好きになること」だなと思っていますし、いまだにその感覚を持ち続けています。  振り返ってみると、あのときに「企業経営とは何か」を経営に近い部分で見てきたことが、今すごくプラスになっていると感じます。起業後、一般的にやりがちなエラーや落とし穴を回避できたのは、このときの経験があってこそだと思っています。

すべての原点となったフリーランスとしての成功体験

水野:バリュークリエーションでの勤務後、大手コンサルティングファームのベイカレント・コンサルティングへ転職されたのですよね。こちらはどんな仕事をされていたんですか? 株本:ベイカレントもコンサル会社なので大まかにはバリュークリエーションと同じだったので、やりがいはありました。ただ、仕事観が「構造化思考」で、Excel関数で管理進行をするといった「型にはまった仕事」の仕方がどうしても好きになれなかったんです。型通りの方法で努力するのがメチャクチャ苦痛でしたね。 水野:前社がベンチャー企業でしたから、そのギャップもあったのかもしれませんね。 株本:はい。退職を決定づけたのが、勤務後1年の給与改定で給与が全然上がらなかったことでした。「この給料でまた1年、苦痛を感じながら働くのか……」と思ったら絶望してしまって。そんなタイミングで、武田塾の創業者で令和の虎としても有名な林尚弘社長が声をかけてくれたんです。 水野:林社長とのつながりがあったのですね。ここで出てくるのが驚きです。 株本:林社長とは、バリュークリエーション時代のお客さまの一人だったのですが、その頃から気にかけてくれていました。ベイカレントを辞めようかどうか迷っている頃、「最近どうしてるの?」って連絡をいただきました。それで飲みに行って現状をお話ししたら、「フリーランスになったら僕の仕事の一部を発注するよ」って背中を押してくれたんです。 水野:そんなオファーがあったのですね。林社長は実に多くの人の人生を変えているんですよね。 株本:ええ、そうですね。今でこそ林社長は超有名人ですけど、その頃は今ほどではありませんでした。いろんな人の人生を変えている人ですが、僕はその第1号かもしれません。  もともと林社長はバリュークリエーション時代にも僕の仕事を認めてくれていて、上司が担当していた仕事を「株本さんのほうが仕事できるから任せて」って言ってくれたりして。それはそれで上司に睨まれるので気が重かったのですが、評価してくれていたんです。 水野:フリーランスとして独立したのは、やはり林社長がきっかけだったのですか? 株本:もちろんそれも大きいのですが、実はバリュークリエーションからベイカレントへの転職のとき2か月くらい間があったので、留学でもしてみようかとフィリピンのセブに英語留学したんです。これがすごく楽しくて、今でも時間があればまた行きたいと思っているくらいで! その学校に来ている人の中に、フリーランスのエンジニアがいたんです。  それまでそういう人がいることすら知らなかったのですが、話を聞いてみると「月150万円の仕事を3か月とか半年とかやって、終わったらまた2か月こっちに来て、日本に帰るとまた別のプロジェクトに入って短期で働く」みたいな人だったんです。衝撃でしたね。「そんな働き方があるんだ」と。 水野:フリーランスとの出会いが強烈だったのですね。 株本:はい。その体験があったので、フリーランスとしてまずは独立することにしました。ベイカレントを退職してからその間、仕事を依頼していただけそうな人や仲が良かった人にコンタクトを取りました。  約束どおり仕事を発注してくれた林社長を含め、独立直後で3~4社からお仕事をいただくことができ、翌月から月収が100万円以上になりました。会社員とはまったく違う給料で、改めて「フリーランスって最高だ」という気持ちを今でも覚えています。あれが本当の意味での最初の成功体験で、原点だと思っています。
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まったく新しい組織のかたち「フリーランス集団」の誕生
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1973年生まれ。作家。実業家。投資家。サンライズパブリッシング株式会社プロデューサー。経営者を成功に導く「成功請負人」。富裕層のコンサルタントも行う。著書も多数。『幸福の商社、不幸のデパート』『「成功」のトリセツ』『富豪作家 貧乏作家 ビジネス書作家にお金が集まる仕組み』などがある。

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