「フミ斎藤のプロレス講座別冊」月~金更新 WWEヒストリー第35回
ビンス・マクマホンは、WWEがターゲットとする観客層とMTVの視聴者層を“共通分母”ととらえた。

ハルク・ホーガンとMTVとシンディ・ローパーのコラボレーションに、アメリカじゅうのマスメディアは“プロレス・ブーム”の気配を感じとった。(写真は米専門誌「インサイド・レスリング」1985年8月号表紙)
キーパーソンは、人気女性ロック・シンガーのシンディ・ローパーだった。ローパーは国内線飛行機でたまたまとなりに座ったWWEの悪党マネジャー、ルー・アルバーノとの約2時間の会話を「ひじょうにインスパイアされた時間」(ローパー談)と感じた。
アルバーノはローパーがどのくらいビッグなロックスターであるかをまったく知らなかったし、もちろん、ローパーもアルバーノのことを知らなかった。ローパーは、1950年代から30年以上にわたりマディソン・スクウェア・ガーデンの舞台に立ちつづけているというアルバーノの昔ばなしに耳を傾けた。
ニューヨークのプロレスファンにとって月にいちどのガーデン定期戦は“生活習慣”のようなものだが、ポップ・ミュージックの世界には、ガーデンで毎月コンサートを開き、1年を通じてコンスタントに約2万人の大観衆を動員できるアーティストなんて存在しないし、またそういう発想もなかった。ローパーは、プロレスの文化的価値と肌の色や宗教を超えた大衆性、そして、そのタイムレスな人気にショックを受けたとされる。
ローパーとアルバーノはおたがいの電話番号を交換して飛行機を降りた。それから数カ月後、アルバーノは大ヒット・シングルとなったローパーの“ガールズ・ジャスト・ワナ・ハブ・ファン”のミュージック・ビデオにローパーの父親役でゲスト出演した。
ビンスは、アルバーノとローパーのコネクションを逃がさなかった。WWEのテレビ番組に特別ゲストとして登場したローパーは、ロディ・パイパーのトーク・コーナー“パイパーズ・ピット”でパイパー、アルバーノと大ゲンカを演じた。これが“予告編”だった。
ローパーは「プロレスで決着をつける」と宣言し、アルバーノもこれに応じた。もちろん、ローパーとアルバーノが闘うわけではなくて、ローパーが“友人”ウェンディ・リヒターを連れてきて、アルバーノがマネジメントする“女帝”ファビュラス・ムーラに挑戦するという設定が用意された。
イベント名は“ブロール・トゥー・セトル・イット・オール”。ロケーションはもちろん、ローパーとアルバーノの“因縁ドラマ”の背景をつくったマディソン・スクウェア・ガーデンだった。MTVがこのイベントを1時間ワクの特番として全米生中継でオンエアした(1984年7月23日)。
1時間番組はハルク・ホーガン対グレッグ・バレンタインのWWE世界ヘビー級選手権、バトルロイヤル(アントニオ猪木が優勝)、ムーラ対リヒターのWWE世界女子選手権の全3試合というラインナップになっていた。MTVにチャンネルを合わせた視聴者は、ローパーよりも先にホーガンのプロモーション映像をたっぷりと目にすることになった。これがビンスのそもそもの計画だった。
ローパーがリヒターのセコンド、アルバーノがムーラのセコンドについたWWE世界女子選手権は特番のメインイベントにレイアウトされていた。MTVのカメラはリングサイドのローパーとアルバーノの動きを追いつづけた。
リヒターがムーラを倒してタイトル奪取に成功した。ガーデン定期戦の常連層にとってはそれはなんでもない試合だったが、マスメディアはWWEとMTVのジョイント企画に“プロレス・ブーム”の気配を感じとった。特番はケーブルTVとしては驚異的な9パーセントの視聴率をはじき出した。
試合が終了した瞬間、ホーガンがリングに上がり、ローパーとリヒターのふたりと抱き合った。リヒターは手に入れたばかりのWWE世界女子王座のベルトを腰に巻き、ホーガンもWWE世界ヘビー級王座のベルトを手に持っていた。
番組エンディングは、この3人のスリーショット。テレビの画面のなかでだれよりも目立っていたのはホーガンだった。(つづく)

斎藤文彦
※この連載は月~金で毎日更新されます
文/斎藤文彦 イラスト/おはつ
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