NWAが“レッスルマニア4”と同日・同時間帯に特番生中継――フミ斎藤のプロレス講座別冊 WWEヒストリー第79回
WWEとNWAクロケット・プロの3度めの“電波戦争”は1988年3月。こんどはNWAクロケット・プロがWWEの“レッスルマニア4”と同日・同時間帯にケーブルTV特番“クラッシュ・オブ・ザ・チャンピオンズ”第1回大会(3月27日=ノースカロライナ州グリーンズボロ、グリーンズボロ・コロシアム)を全米生中継した。
“レッスルマニア4”と“クラッシュ・オブ・チャンピオンズ”のぶつかり合いはアメリカのTV業界で“スーパー・サンデー”と形容され、PPV有料契約世帯とケーブルTV視聴世帯の数字の推移に注目が集まった。
リック・フレアー対スティングのNWA世界ヘビー級選手権をメインイベントにラインナップした2時間特番“クラッシュ・オブ・チャンピオンズ”は平均5.8パーセント(占拠率13シェア)の視聴率をマークし、フレアー対スティングのタイトルマッチがオンエアされた番組終盤の45分間は瞬間最大視聴率7.8パーセントまで上昇した。この数字はTBS(ターナー・ブロードキャスティング・システムズ)がそれまでにオンエアしてきたプロレス番組の視聴率記録を塗り替えた。
“レッスルマニア4”のPPVは前年の“レッスルマニア3”を上回る58万5000世帯が有料受信。しかし、ケーブル回線をプラットホームとした“有料番組”と特番(チャンネル契約のみ=無料)のふたつのプログラミングの同時放映は各地のケーブル局を混乱させた。
NWAクロケット・プロがプロデュースした“クラッシュ・オブ・チャンピオンズ”の最大の功績は、まだ無名の新人だったスティングをメインイベントに抜てきし、たった一夜にしてスーパースターを誕生させたことだった。
スティング(本名スティーブ・ボーデン)はレッド・バスチェンのコーチを受け、1985年11月、テネシーでデビュー。デビュー当時はバスチェン道場の同期ジム・ヘルウィグ(のちのアルティメット・ウォリアー)とのタッグチーム、ブレード・ランナーズとして活動。ルイジアナUWF(前名MSWA)をサーキット中にコンビを解散し、ヘルウィグはダラス・ワールドクラス地区に転戦した。
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