ビンスと“テレビ王”テッド・ターナーの暗闘――フミ斎藤のプロレス講座別冊 WWEヒストリー第88回
“テレビ王”ターナーは、個人的なレベルではプロレスに愛着を持っていた。南部ジョージアでは戦後まもない1940年代後半から30年以上にわたり、ローカルTV局でのプロレス中継が放映されていた。アトランタに住むプロレスファンにとって、土曜の夕方は“ラスリン・アワー”だった。1972年にターナーがアトランタにUHF局WTCG(TBSの前身)を開局したときも“ジョージア・チャンピオンシップ・レスリング”は同局の人気番組だった。
もっとも、ターナー自身が新団体WCWの経営に積極的にタッチしていたかというとそうではなかった。MLB、NFL、NBAなどのフランチャイズを共同保有するターナー・グループは、あくまでもビジネスとして倒産寸前だったNWAクロケット・プロに資本投下という“助け舟”を出したが、プロレスというジャンルとの関係はそれ以上でもそれ以下でもなかった。
WCWはターナー・グループの“プロレス事業部”として発足し、ターナー本社エグゼクティブのジャック・ピートリックがCEO(最高経営責任者)に就任。ピートリックが副社長に任命したジム・ハードがWCWの現場のボスのポジションについた。
J・ハードは1970年代にミズーリ州セントルイスのローカル局KPLRに在職中、プロレス番組“レスリング・アット・ザ・チェイス”(サム・サソニック派)の制作にたずさわった経験を持つ人物だったが、プロレスに関してはまったくのシロウトだった。WCWの約12年間の短い歴史は、このハードからのちのエリック・ビショフまで、つねに“雇われ副社長”と運命をともにすることになる。
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