“貧困の悪循環”で8人を殺害…凶悪犯の更生教育は正しかったのか【大量殺人事件の系譜】
警察庁は12月9日になって、広域重要105号事件に指定。同月12日に古谷を全国に指名手配した。手配の直後にも、兵庫県西宮市で2人の遺体が発見され、現場近くにいた古谷がようやく逮捕された。当初は犯行を否認していたが、やがて、8人の殺害を認めた。取調べによると古谷は、各地を放浪しながら目星をつけた一軒家で、
「一晩、泊めてほしい」
「飯を食わせてくれないか」
などと要求し、断られると短絡的にも殺害におよび、小銭を盗んでいたのだった。さらに驚くことに、証拠不十分で不起訴になった事件も含めると、計12人の殺害に関わっていたとされる。
1914(大正3)年、長崎県で生まれた古谷は早くに母を亡くし、父とも折り合いが悪かった。前述のように、16歳以降のほとんどの時間を刑務所で暮らしてきた。1951(昭和26)年、19歳の少年とともに、福岡県で2人を殺害する強盗殺人事件を起こす。この事件では、見張り役に過ぎない少年が主犯とされ、死刑が執行されてしまった。実行犯の古谷は証拠不十分で懲役10年の判決を受け、その仮出所直後に8人の連続殺人を犯したのである。
上告が棄却され死刑が確定したのは、1978(昭和53)年のこと。古谷には身寄りも知人もなく、面会や手紙のやり取りはほぼ皆無だった。7年後の1985(昭和60)年に死刑が執行されたが、これは当時、死刑執行の最高年齢だった。享年71。
「もはや戦後ではない」
1956(昭和31)年に経済白書はこう宣言した。しかし、世の中はなべ底不況に陥り、三池争議や安保闘争などが起こるなど、社会は混迷を深めていた。そんな時代、凶悪犯の刑務所での更生教育と出所後のあり方が、大きく問われた古谷惣吉の事件であった。 <取材・文/青柳雄介>
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