更新日:2021年10月01日 14:49
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100人以上の赤ん坊が殺された「寿産院事件」…“母子の悲劇”は現代も繰り返されている【大量殺人事件の系譜】

 この世には思いもよらぬ、ゾッとする出来事が起こる。殺された赤ん坊は100人とも150人とも言われ、正確な数は定かではない。いずれにしても、戦後の混乱期に嬰児の大量殺人事件が発生した。

寿産院事件(1944年~1948年)大量殺人事件の系譜~第6回~

寿産院事件

『アサヒグラフ』1948年2月11日号に掲載された被害母子の写真

 第2次世界大戦後間もない1948(昭和23)年1月、まだ敗戦後の虚脱感が残っていた。東京都新宿区の路上で、大きな木箱を持って運ぶ不審な男がいた。男は葬儀屋で、箱の中には乳児の死体5体が入っていた。男が言うには、死体は産院から預かったもので、これまで数十の遺体を預かったという。  食糧事情がよくなく医薬品も少ない時代とはいえ、あまりにも多い数の子どもが死亡している。異様さを察知した警察がすぐにその寿産院を調べると、4年前の開院当時から100人以上の乳幼児が亡くなっていることが判明した。  子どもを守る産院で、なぜ多くの乳幼児が死亡するのか。その解は院長夫婦にあった。混乱の時代ではあったが、ベビーブームでもあった当時、手許での子育てが困難な親から子どもを預かっていた院長夫婦。あるいは、養子に出したい子を引き取ることもあった。そこには養育費や養子斡旋料が発生する。院長夫婦はそこに目をつけたのだ。  新聞の3行広告で乳幼児を集め、その1人あたりの養育費は、当時としては大金の約5000円だった。ほかに東京都から補助金も出ていた。そうした大きな利益を得ながら、子どもの面倒をまったくみることなく死亡させていたのだ。また、産院向けのミルクや米や砂糖など特別な配給品があったが、その貴重な物資はほとんど闇市に横流しし、さらに私腹をこやしていたのだ。  事件が発覚したときの5人の乳児は、2人が凍死、3人は栄養失調だった。解剖すると、胃には食べ物の痕跡が何もなかったという。他の死因も、凍死や餓死、窒息死が多かったという。自然死なのか他殺なのか、それは不明な点が多くまちまちだが、少なくとも消極的な殺人であったことは間違いない。
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現代も10年間で虐待死の0歳児は256人
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