ビンスの不安と“複数スター制”の混とん――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第206回(1996年編)
ビンス・マクマホンにとっていちばんやっかいだったのは、WWEは“ロウ”をはじめとする自社制作のテレビ番組群がPPV(ペイ・パー・ビュー=契約式有料放映グログラミング)とハウスショー興行の宣伝媒体と位置づけていたのに対し、WCWはあくまでも“ナイトロ”の番組プロデュースとその視聴率だけを団体としてのいちばんのプライオリティーととらえていた点だった。
つまり、WCWははじめからPPVの契約世帯数や従来のハウスショー興行の収益でWWEと勝負するつもりはなかった。
WCWの親会社であるTBS(ターナー・ブロードキャスティング・システムズ)は“メディア王”テッド・ターナーがオーナーの巨大企業で、“プロレス事業部”にあたるWCWはそのなかの1セクションに過ぎない。
WWEはビンスが父ビンセント・ジェームス・マクマホンから株式を買い上げ、“1984体制”で全米マーケットに進出して規模拡大に成功したファミリー企業。プロレスの世界ではたしかに最大手であっても、ターナー財閥と比較すると単なる中小企業とカテゴライズされる。
WCWの最大の強みはターナー・グループの財力をフルに、それもほとんどノー・チェックに近い状態で運用できることだった。T・ターナーは1995年9月、TBSをタイム・ワーナー社へ売却。タイム・ワーナー社傘下となったTBSのそのまた傘下のWCWは、じつはその経営状況がなかなか親会社の目には届かない“赤字部門”でもあった。
エリック・ビショフ副社長が“雇われ店長”としてかなり自由に経費を使うことができたのはそのためで、ハルク・ホーガンをはじめとするベテラン・グループはビショフ副社長に“ATMエリック”というブラックジョークのようなニックネームをつけていた。
ホーガンが1994年に複数年契約を交わし、その後、“マッチョマン”ランディ・サベージがWWEから電撃移籍したあたりからWCW契約選手の年俸はいっきに高騰していった。
この連載の前回記事
この記者は、他にもこんな記事を書いています
ハッシュタグ