更新日:2022年08月07日 19:19
スポーツ

時代の一歩先を拝み渡りしたHAKUSHI=新崎人生――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第219回(1996年編)

 新崎は、弘法大師のゆかりの地である四国八十八カ所の霊場を巡礼して歩くお遍路である。もちろん、アメリカ人にはそれがいったいなんのことかはわからないし、お遍路さんと仏教のお坊さんの区別なんてつかない。  ただ、このキャラクターをWWEのリングに持って帰れば“人気商品”になりそうだということだけはWWEのスタッフが感じた共通のコンセンサスだった。  WWEから新崎のもとへ電話帳サイズの契約書類とブッキングシートが送られてきたのは1994年10月。新崎は翌11月、“サバイバー・シリーズ”が開催されたテキサス州サンアントニオでWWEサイドと契約について話し合いの場を持ち、ここで初めてコントラクト(契約書)にサインをし、いったん帰国したあと、1995年1月からWWEの全米ツアーに合流した。  WWEサイドが用意していた白使というリングネームは、ホワイト・エンジェルというコンセプトを無理やり日本語に直訳した“造語”だった。ジンセイ・シンザーキという日本名はアメリカ人には発音しにくい、というのが突然の改名の理由だった。  新崎、というよりも白使とWWEの契約、現地での正式デビューまでのプロセスには“ヒットマン”ブレット・ハートが深くかかわっていた。1994年の日本公演で新崎の試合とそのキャラクターをすぐそばで観察したブレットは、単発ではなくあくまでもレギュラー枠での新崎の獲得を首脳部に提案。WWEがみちのくプロレスに新崎の身元照会を依頼し、みちのくサイドもこの契約交渉を快諾したため、新崎のWWEへの“レンタル移籍”が実現した。  ブレットは当初、白使の悪党マネジャーとして、かつてブレットのホームタウンのカナダ・カルガリーで活躍したKY・ショーグン・ワカマツ(若松市政)をブッキングをしようとしたが、このプランニングはなぜかうまくいかず、結果的に白使のマネジャー役には当時、WWEアジア地区担当エージェントだった“信者”こと佐藤昭雄(元全日本プロレス=引退)がついた。
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WWEでのサーキット生活はまさにお遍路さんの巡礼そのもの
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