「切腹」の作法って知ってる? 腹を切っただけではなかなか死ねない…【歴女内科医・まり先生の歴史診察室】
さて、そんな切腹ですが、江戸時代に入って武士の処刑法として定着しますと、同時に作法も確立されていきました。 沐浴やら末期酒やら死ぬ前の部分を省いて説明しますが、切腹人が腹を一文字に切ったところで介錯人が首を落とすのがスタンダード。 時代が下って江戸中期に入ると簡略化され、切腹人は短刀ではなく扇子を使い、その扇子に手をかけようとした瞬間、介錯人が首を落とすという方法が一般的になりました。 なぜこんな方法になったのか。と、申しますと話は単純です。 『切腹だけだと、痛くて苦しい上になかなか死ねない』からです。 出血多量で早目に死ぬには「腹部大動脈」を切れば良いのですが、腹部大動脈は背骨の横あたり(腹側から見るとかなり深い部分)を走るため、傷をつけるには相当な気合が必要。肉厚なおデブさんにはまず無理です。 また、中途半端に腸を斬ると即死はせず便が漏れ出し、腹膜炎→敗血症で相当悲惨な死に方をしてしまいます。それも数日かけて! そのため、もしも介錯なしで切腹する時には、ある程度刀を刺したところで、今度は喉に持っていき、頸動脈を掻き切って死ぬ場合が多かったようです。喉元なら走行が浅いので、即死に近い状態で死ねます。 なお、戦国時代末~江戸初期までは、介錯人が付かずに自力で切腹した方も多くいたようで『腹を十文字に切り裂く・十文字腹』や『内臓を掴み出す・無念腹』といった過激な方法も残っております。まさに、漫画の柴田勝家さんの死に方と一致しますね。クロスに切り裂く「十文字腹」 内臓をつかみ出す「無念腹」
柴田勝家は、信長の父・織田信秀の代から仕える武将でした。 一時は、信秀の次男(つまり信長の弟)信勝の家老となり、信長に対し反旗を翻しましたがこれに敗れ、後に軍門に下ります。そして『鬼柴田』と異名をとるほど武勲をあげ、織田家の筆頭家老に上り詰めました。 しかし、北陸攻めの最中に起きた本能寺の変では、光秀討伐に間に合わず、織田家臣団での発言力を秀吉に抜かれてしまいます。 とりわけ、織田家の後継者を決める『清洲会議』で、信長の三男・信孝を推しながら、秀吉が擁立した三法師(信長の長男・信忠の息子)に敗北したのが大きかった。 信長の妹・お市との結婚が決まったのを勝利と見る向きもありますが、その後、日の出の勢いの秀吉には敵わず、結局、賤ヶ岳の戦いを機に切腹へと追い込まれていくのでした。 さて、そこで問題です。漫画のように「勝家がハラワタをひきちぎった史料は存在する」のか?と、困っていたら『柴田退治記』にそれを匂わせる記述がございまして。 私の現代語訳で強引に進めますと、勝家はまず「腹の切り様を見よ!」と左手で脇差を突き刺し、右手で背骨側に引きつけて切り、返す刀で心下から臍下まで切り裂いた(十文字腹)とのことです。 ただ、これだけでは終わらず、さらに五臓六腑を掻き出して(無念腹)、家臣の中村文荷を呼んで首を打つように頼んだとのこと(文荷は後ろにまわって勝家の首をはね、文荷もその太刀で腹を切って死にました)。 「内臓を投げた」とは書いていません。 が「内臓を掻き出して」はおりますね! まさしく、秀吉に対する、どうにもならない無念の怒りが蘇ってくるかのような記述。そしてそれは、勝家が後見人となっていた織田信孝にも、同じような現象が見られるのです。十文字に腹を切ったあと、五臓六腑を掻きだした
『戦国診察室 お館様も忍びの衆も歴女医が診てあげる♪』 現代医学の観点から、戦国時代の武将の生活習慣や医療環境などを見つめなおしたショートエッセイ集 |
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