オーエン・ハート“カルガリーの天才児”と呼ばれた男――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第313回(1999年編)
なぞのマスクマン、ブルー・ブレーザーは天からリングに舞い降りてくるはずだった。
“魔の一瞬”は第3試合開始の直前に起きた。ブルー&レッドのマスクに白いフェザー(羽)のマントを身にまとった人の影が観客の目のまえでいきなり空から降ってきて、コーナーポストの金具に激突し、そのまま動かなくなった(1999年5月23日、ミズーリ州カンザスシティー、ケンパー・アリーナ=PPV“オーバー・ジ・エッジ”)。
セキュリティーがすぐにかけつけてリング上で人工呼吸などの応急処置をほどこしたが、すでに意識はなく、数分後に現場に到着した緊急医療チームがカンザスシティー市内のトゥルーマン・メモリアル病院に搬送したが、まもなく死亡が確認された。
“ブルーの衣装”を身にまとったレスラーは、かつて“カルガリーの天才児”と呼ばれたオーエン・ハートだった。
“天才”のあとに“児”がつけられたのは、オーエンが12人兄弟の末っ子だったからだ。
カナダ・カルガリーの名門レスリング・ファミリー、ハート家は男8人と女4人の大家族。元WWE世界ヘビー級王者“ヒットマン”ブレット・ハート(六男)をはじめとする8人のブラザーたちはいずれもプロレスラーで、長女エリー(夫はジム・ナイドハート)はWWEのナタリアの母親、四女ダイアナは新日本プロレスで“鈴木軍”のメンバーとして活躍しているデイビーボーイ・スミス・ジュニアの母親である。
“プロレス地理学”においてカルガリーと日本はひじょうにディープな関係にあった。オーエンがまた中学生だったころ、実家の地下道場“ダンジェン”で初めてプロのレスリングを教えてくれたのは、当時カルガリーに在住していたミスター・ヒト(安達勝治)とミスター・サクラダ(桜田一男=ケンドー・ナガサキ)のふたりの日本人レスラーだった。
1980年代のカルガリーは日本人レスラーたちの“海外キャンプ地”で、ザ・コブラ(ジョージ高野)、サニー・トゥー・リバース(平田淳嗣=スーパー・ストロング・マシン)、ヒロ斉藤ら“昭和50年代世代”から獣神サンダー・ライガー、橋本真也、佐々木健介、馳浩、リッキー・フジら“昭和60年代世代”までが長期滞在した。
若手時代のオーエンのライバルは、マスクマンのベトコン・エキスプレス1号(馳)。“カルガリーの天才児”というコピーが日本語の活字なったのもこの時代だった。
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