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ダニー・クロファットはフレンチ・カナディアン――フミ斎藤のプロレス読本#036【全日本プロレスgaijin編エピソード6】

 ある日、ギイさんがフィルに500ドルの現金をくれて、こう告げた。 「この金を持って町を出ろ。どこか別の土地に行って、最初からやり直せ」  身のまわりのものをバックパックにつめて、フィルは家を出た。アルバータ州カルガリーに行くことに決めた。1982年ごろのカリガリーは、冬季オリンピック(1988年)の開催地に選ばれたことで街全体が活気に満ち、新しい人びとや新しいマネーが入ってきて経済が潤っていた。  フィルはカルガリー市内のゴールド・ジムで受付の仕事についた。これだったらトレーニングしながらお金も稼げる。このジムの常連がダイナマイト・キッドとデイビーボーイ・スミスだった。  いまとなっては信じられないようなはなしだが、フィルはキッドとスミスのことを知らなかった。それで「あんたたち、イイ体してるね。商売はなに?」なんて聞いてしまった。すぐよこにいたもうひとりの筋肉マンが、お前さん、怖いもの知らずだな、とでもいいたげに顔をしかめた。  その筋肉マンはベン・バサラブという名のプロレスラーの卵で、のちにカナディアン・ルイスという変てこなリングネームでキッド&スミスの弟分としてデビューした。  ジムにやって来るレスラーたちと仲よくなったフィルは、キッドからプロレス入りを勧められた。“カルガリーの父”スチュー・ハートを紹介され、ミスター・ヒト(安達勝治)と出逢い、いつのまにかハート道場“ダンジェン”の練習生になった。  はじめのうちは15人くらいいた練習生が最後にはフィルとベンのふたりだけになっていた。  フィル・ラファイアーという最初のリングネームは、フィルが自分で考えたものだ。フレンチ・カナディアンのアイデンティティーを大切にしたかったから、典型的なフランス名を名乗った。  カルガリーでは約2年間、前座でがんばった。夏のあいだは東カナダのノーバスコシア地区のサマー・サーキットに参加した。同じ年の秋には第1次UWFの『ストロング・ウィークス』というシリーズ興行のツアー・メンバーに選ばれて初めて日本に行った。  日本遠征のあとは、ジャック・スヌーカというレスラーに誘われてオレゴンに行ってみたが、試合中に左ヒザを骨折してしまった。いったんホームタウンのモントリオールに帰って治療に専念したが、どの医者もプロレスはもう無理と診断した。それでまた地元の不良と付き合うようになった。  生活費をつくるために夜だけバーのバウンサー(用心棒)のアルバイトをするようになったが、ある晩、その店で友だちが酔っぱらいにナイフで腹を刺された。こんな生活をしていたら自分はダメになると思ったフィルは、すぐに次の日にディノ・ブラボーのオフィスに駆け込んだ。  “フィル・ラファイアー”というレスラーがカルガリーのリングに上がっていたことを知っていたブラボーは、フィルをすぐに採用してくれた。ただし、マッチメーカーのリック・マーテルのアイディアで“カルガリー出身のダニー・クロファット”という別人に変身させられた。  少年時代からフィルに「スポーツに打ち込め。スポーツ選手になれ」と励ましていた父親のギイさんは、ふらふらしていた息子がまたプロレスをはじめたことを喜んだし、フィルも2度めのデビューからプロレスが楽しくなった。  ギイさんは、いまではフィルが日本から持ち帰るプロレス雑誌を1ページずつたんねんにながめるのをなによりも楽しみにしている。 「プロレスは、オレがいままでやった仕事のなかでいちばんまともなビジネスだ。プロだから、一生懸命やればいいお金が稼げる。いいスポーツだよ。いい選手に対してはフェアな世界だ」  フィルは――日本で知り合ったダグ・ファーナスとカンナム・エキスプレスというタッグチームを結成して――プロレスラーとしての自分に大きな可能性を見出している。でも、ひとつだけ迷っていることもある。  いつかはダニー・クロファットというリングネームを返上して、本名のフィリップ・ラファンとしてリングに上がりたいけれど、いったいいつになったらそのタイミングがやって来るのかわからない。
斎藤文彦

斎藤文彦

 フィルは、モントリオール生まれのフレンチ・カナディアンである。 ※文中敬称略 ※この連載は月~金で毎日更新されます 文/斎藤文彦 イラスト/おはつ
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⇒連載第1話はコチラ

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