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バブルの代名詞「赤プリ伝説」を振り返る…イブの夜は宿泊カップルの営みのせいで震度3~5クラスの揺れを観測した

 今のゆとり世代に聞かせたら、「マユツバモノの武勇伝」として一笑に付されるものばかりなのかもしれない。だが、これはどれも間違いなく(「震度3~5クラスの揺れを観測した」を除けば)、ほぼ真実なのだ。  そして、15万円の予算が捻出できない者や、準備不足で赤プリのクリスマスをキープし損なった者は、「プリンス」がついたらなんでもいいや……と、急場しのぎで「東京プリンスホテル」や「池袋サンシャインプリンスホテル」や「新宿プリンスホテル」へと流れていった(秩父にある「長瀞プリンスホテル」まで流れ着いた者も実在した)。つまりプリンスブランドは、当時の若者にとって、それくらいの確固たるステイタスを誇っていたのである。  そんな「赤プリ躍進」の大きなきっかけは、まだバブル前夜だった80年代前半にまで溯る。1983年、丹下健三氏設計の「タワー新館」が鳴り物入りでオープン。「高級ホテル=厳か」といった従来のイメージを打ち破る、すべての部屋が角部屋となる、ギザギザの近未来的でスクエアな、ひたすら「モダン」に徹したデザインが、あのころのアッパーな空気にマッチしていたのだろう。  営業開始当初は、小金を持った高感度人間たちの常宿として、口コミで「イケてる感」が伝わり、バブルに突入したあたりからその噂が市井の民にまで広がり、一気にブレイク。そこから騒乱と喧噪が始まることとなる――。  さて、バブル景気を経て、その約20年後にひっそりと営業を終えた赤プリ(閉館時は「グランドプリンスホテル赤坂」と改称されていた)であるが、現在はオフィス、商業スペース、ホテル、住居が一体となった某複合型施設へと姿を変えている。シンボリックからファジーに――こういった「セレブの在り方の違い」も一つの時代の流れ……なんですかね? 合掌! 文/山田ゴメス、写真/産経新聞社
大阪府生まれ。年齢非公開。関西大学経済学部卒業後、大手画材屋勤務を経てフリーランスに。エロからファッション・学年誌・音楽&美術評論・人工衛星・AI、さらには漫画原作…まで、記名・無記名、紙・ネットを問わず、偏った幅広さを持ち味としながら、草野球をこよなく愛し、年間80試合以上に出場するライター兼コラムニスト&イラストレーターであり、「ネットニュースパトローラー(NNP)」の肩書きも併せ持つ。『「モテ」と「非モテ」の脳科学~おじさんの恋はなぜ報われないのか~』(ワニブックスPLUS新書)ほか、著書は覆面のものを含めると50冊を超える。保有資格は「HSP(ハイリー・センシテブ・パーソンズ)カウンセラー」「温泉マイスター」「合コンマスター」など
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80's青春男大百科

マイケル富岡、向谷実ほか80年代を象徴する人物たちの貴重な証言。さらにはカルチャー、アイテム、ガジェットで、世の中がバブル景気に突入する直前のあの時代を振り返る!

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