ネバー・ライ、ネバー・チート、ネバー・クイット――フミ斎藤のプロレス読本#060【カール・ゴッチ編エピソード8】
エラさんがいなくなっていちばんつらいことは、話し相手を失ってしまったことだ。もともとお酒は嫌いなほうではなかったけれど、独りぼっちになってからしばらくは明るいうちからブランデーをあおったりした。
早朝ゲイコも休みがちになった。ゴッチ先生は、72歳の男やもめになったのだった。
それからしばらくすると、こんどはエラさんの声が聞こえてくるようになった。
「カール、いったいどういうことなの。ご自分のなさっていることがわかっているの? あなたを守ることができるのは、あなた自身しかいなくてよ」
ゴッチ先生の耳にははっきりとそう聞こえた。もうちょっとおしゃべりをつづけたかったけれど、もうエラさんは話しかけてはくれなかった。
その日からゴッチ先生は家のなかの大掃除をはじめた。身のまわりのものをちゃんと整理しておけば、またいつでも旅に出ることができる。いまいる家が売れたら、モンタナかワイオミングあたりの山奥にでも住みたい。
起床は午前6時で、就寝は午後9時。愛犬ジャンゴのお散歩は1日2回。血のめぐりがよくなって食欲がわいてくるくらいのトレーニングはつづけているし、食事も自分でつくって食べている。得意な料理はパスタとシチューだ。お酒を飲むのは寝るまえだけと決めている。
3日にいっぺんくらいのペースで家をみてみたいという人たちが訪ねてくる。不動産屋さんを信用しない“神様”は、あくまでも自分で家を売ろうとしている。
やっぱりなかには失敬な輩もいて、ゴッチ先生に向かって、やれ外の塀を塗りなおしてくれ、やれ台所をリフォームしてくれと注文をつけてきたりする。
そのたびにゴッチ先生はプーッ不機嫌になって「もういい、出ていけ、出ていけ」とせっかくの訪問者たちを追い出してしまうから、家の買い手なんてなかなか見つかりはしない。
ゴッチ先生はゴッチ先生でオデッサの一軒家にはそれなりに愛着を持っている。20数年まえにここに家を建てたとき、大きな窓の位置、壁紙の色、キッチンのレイアウトを考えたのはエラさんだった。
「ネバー・ライNever lie(ウソをつかないこと)、ネバー・チートNever cheat(ズルはしないこと)ネバー・クイットNever quit(やりはじめたことを途中でやめないこと)」
ゴッチ先生は、軽く目くばせをした。そろそろ犬の散歩の時間だった。
※文中敬称略
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文/斎藤文彦 イラスト/おはつ1
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