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“チェーン・デスマッチの鬼”ボリス・マレンコ――フミ斎藤のプロレス読本#059【カール・ゴッチ編エピソード7】

“チェーン・デスマッチの鬼”ボリス・マレンコ――フミ斎藤のプロレス読本#059【カール・ゴッチ編エピソード7】

『フミ斎藤のプロレス読本』#059は、カール・ゴッチさんの親友ラリー“ボリス”マレンコさんの闘病生活について。フロリダの大学病院でキモ・セラピーの集中治療を受けたラリーさんは、ニコニコ笑って道場に帰ってきた(写真はラリー・マレンコの死去を伝えるフロリダ州タンパの地元紙記事より)

 199X年

 ラリー“ボリス”マレンコは、カール・ゴッチが心を許す数少ない友人のひとりである。ジョーとディーンのマレンコ兄弟の父親で、フロリダ州タンパの名門“マレンコ道場”の創設者。日本のプロレス・マスコミが命名した現役時代のニックネームは“チェーン・デスマッチの鬼”。

 1936年、ニュージャージー州ニューアーク生まれといわれるが、そのプロフィルには不明の部分もある。本名はラリー・J・サイモン。ユダヤ系アメリカ人。1924年生まれのゴッチよりも12歳年下ということになる。

 プロレスラーとしてデビューしたのは1953年ごろとされ、ポスト第二次世界大戦の1950年代はクラッシャー・ドゥガン、オットー・フォン・クラップといったリングネームでナチス系ヒールを演じ、反コミュニズムの“赤狩り”から“冷戦”の時代にはプロフェッサー・ボリス・マレンコ、グレート・マレンコというロシア名を名乗るようになった。

 17歳でプロレスラーになったラリーさんは、アメリカじゅうを放浪したあと、フロリダに落ち着いた。長男ジョーと次男ディーンが第1次UWFのリングに上がったときに使ったジョー・ソルコフ、ディーン・ソルコフというロシア名は母方の旧姓だった。

 あまりちゃんとした教育を受けることができなかったラリーさんは、ふたりの息子たちを大学に行かせた。ジョーとディーンがあまりプロレスラーっぽくないのはそのせいかもしれない。

 ラリーさんが1960年代のアメリカのレスリング・ビジネスの主流派グループのひとりだったかというと、そうではなかった。エディ・グラハム対ボリス・マレンコの因縁マッチがNWAフロリダ地区のドル箱カードだった時代もあったが、両者がリング外でも不仲になると、ラリーさんはNWA――E・グラハムはNWAフロリダのオーナー――から離脱してフロリダにインディペンデント団体を設立した。

 ジョー・マレンコにサブミッション=関節技を教えたのはラリーさんではなくて、ラリーさんの友だちのゴッチだった。

 人付き合いが苦手で友だちが少ないゴッチにとってマレンコ・ファミリーは親せきのような存在で、ラリーさんはゴッチがたまに長電話をする相手。頑固者のふたりはなぜかとても気が合う。

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ラリーさんの体は病魔に侵されている

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