スポーツ

STING=激痛――フミ斎藤のプロレス読本#107【特別編】STINGスティング

 フリーダム・ファイターズとしてのデビュー戦は、1985年11月のサンクスギビング・デーの夜だった。スティーブ・ボーデンはこの日からスティングに変身し、ヘルウィグはロックを名乗った。  アメリカじゅうが感謝祭のディナーを楽しんでいる夜、住み慣れたカリフォルニアから遠く離れた南部テネシーのちいさな体育館のドレッシングルームで顔にペインティングを塗りたくった自分の姿を鏡に写したスティングは「オレもついにプロレスラーか」とつぶやいた。  テネシーでの生活は肉体的にも精神的にも、そして経済的にも予想をはるかに超えたハードなものだった。フリーダム・ファイターズというチーム名はある日、ジェレットの鶴のひと声でブレードランナーズに変えられた。  ハリソン・フォード主演の近未来SF映画『ブレードランナー』が大ヒットしていたから、というそれだけの理由からだった。テネシーにいたのは3カ月間で、それからルイジナアに南下していった。  ルイジアナMSWA(ミッドサウス・レスリング・アソシエーション=ビル・ワット代表)からUWFに団体名を改称し、それまでのディープサウス・エリアから全米に興行テリトリーを拡大しようとしていたワットが、ブレードランナーズのキャラクターに目をつけ、即戦力としての売り出しを計画していた。  スティングとヘルウィグはこの団体にじっくり腰を落ちつける決心をした。 「ルイジアナには1987年3月までいた。でも、コンビを組んで1年くらいすると、プロレスに関する考え方のちがいからだんだんとヘルウィグと意見が衝突するようになった。彼はリングに上がって筋肉ポーズをとるだけでマネーが稼げると思っていた。ぼくは、それはちょっとちがうんじゃないかなと感じた。気がつくと、リングのなかでバンプ(受け身)をとっているのはぼくだけだった」  スティングとのタッグチームを解消したヘルウィグは、ルイジアナからダラスWCCW(ワールドクラス・チャンピオンシップ・レスリング=フリッフ・フォン・エリック)に転戦してディンゴ・ウォリアーに改名。その後、アルティメット・ウォリアーにモデルチェンジしてWWEと契約した。  ワット派UWFはその後、NWAクロケット・プロと吸収合併。そのNWAクロケット・プロも“テレビ王”テッド・ターナーに身売りし、1988年11月、新しいメジャー団体としてWCW(ワールド・チャンピオンシップ・レスリング)が発足。スティングはWCWと専属契約を交わした。  スティングStingとは“激痛”を意味する。ベニス・ビーチを離れ、いわば流れ者のレスラーになったスティングにはぴったりのリングネームかもしれない。  プロレスという劇薬の虜になってしまったスティーブ・ボーデンは、“毒を食らわば皿まで”のつもりでペインティングの下に素顔を隠した。  WCWを選んだスティングとWWEとの契約を望んだヘルウィグは、やはりいずれは袂を分かつ運命にあったのだろう。 「ぼくのペインティングにルールはないんだ。だから、まったく同じデザインは絶対に2度は描けない。レスリングだって同じ試合は2度はできないだろ」  アルティメット・ウォリアーに変身したヘルウィグが“レッスルマニア4”の大舞台でホンキートンク・マンを下してインターコンチネンタル王者となった日、スティングは“クラッシュ・オブ・チャンピオンズ”第1回大会でリック・フレアーが保持するNWA世界ヘビー級王座に初めて挑戦し、45分時間切れドローの“出世試合”を演じた。  スティングはあえて激痛を求めたのだった。 ※文中敬称略 ※この連載は月~金で毎日更新されます 文/斎藤文彦
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⇒連載第1話はコチラ

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