ルー・テーズ “鉄人”は20世紀のプロレス史――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第1話>
“伝説”はこのあたりからスタートしている。ある日、セントルイスのジムに“絞め殺し”エド・ルイスがやって来て、たまたまそこにいたテーズにケイコをつけたとされる。
“伝説”によれば、新人のテーズが元世界チャンピオンのルイスをいきなりグレコローマン・バックドロップで投げつけ、ルイスが「未来のチャンピオンを発見した」と大喜びしたとされているが、じっさいにはスパーリングはおこなわれなかったとする学説もある。
17歳のテーズと43歳のルイスの運命的な出逢いがあったことは事実なのだろう。1933年から1934年あたりのエピソードだ。
テーズは1937年12月29日、セントルイスでエベレット・マーシャルEverette Marshallを下し、21歳で初めて世界ヘビー級チャンピオンとなった。
1920年代から1980年代前半までの約60年間、アメリカでもっともプロレスの人気が高かった土地はニューヨークとこのセントルイスだった。
セントルイスにプロレスを根づかせたのは、ギリシャ生まれでアメリカ育ちのトム・パックスTom Packsというプロモーターで、1922年にセントルイスに興行会社を設立した。
パックスは、ニューヨーク・ニューヨークのジャック・カーリーJack Curley、ザ・ゴールド・ダスト・トリオThe Gold Dust Trio(エド・ルイス&ビリー・サンドーBilly Sandow&ジョセフ・レイモンド“トゥーツ”モントJoseph Raymond“Toots”Mondt)ら大プロモーターたちと提携し、ニューヨークのスーパースターをセントルイスにブッキングした。
アメリカのほぼまんなかに位置するセントルイスは、鉄道でニューヨークからカリフォルニアまで大陸横断していく“プロレス一座”の停泊ポイントとなった。
中西部セントルイスがレスリング・ビジネスの中心地となりえたのは、1938年から1949年までの11年間、ニューヨークのマディソン・スクウェア・ガーデンでのプロレス興行がダーク・ピリオド(活動休止)にあったこととも深く関係している。
テーズは若くて、強くて、グッド・ルッキングで、観客動員力のあるチャンピオンらしいチャンピオンだった。
1940年代から1960年代前半まで――テーズにとっては20代前半から40代前半まで――の20数年間の世界ヘビー級王座の分裂-統合-再分裂の歴史はつねにテーズを中心に動いた。
第二次世界大戦後の1948年にはのちに“世界最高峰”と位置づけられるプロレス組織NWA(National Wrestling Allianceナショナル・レスリング・アライアンス)が発足した。
NWAの発起人は、パックス派から独立して1932年にセントルイスで興行活動をスタートさせたサム・マソニックSam Muchnickをリーダーとする中西部の7人の大物プロモーターたちだった。
テーズが勝ったり負けたりするたびにプロレス史が形づくられていった。パーソナル・マネジャーとして、テーズのよこにはいつも“絞め殺し”ルイスの姿があった。
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