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ルー・テーズ “鉄人”は20世紀のプロレス史――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第1話>

 力道山とのタイトルマッチのため初来日したのは1957年(昭和32年)で、“世界選手権保持者”テーズはこの時点ですでに41歳になっていた。  その後、テーズは力道山の弟子の馬場、猪木ともシングルマッチで対戦。1980年代にはジャンボ鶴田にバックドロップを伝授した。  テーズがエドワード・カーペンティアに敗れた試合(1957年6月14日=シカゴ)をきっかけにNWAが内部分裂し、AAC(ボストン)、WWA(ロサンゼルス)、AWA(オマハ-ミネアポリス)といった新興団体が各地に誕生した。  バディ・ロジャースとの闘いでは「テーズを認めない」とするビンス・マスマホン・シニアがニューヨークにWWWF(現在のWWEのルーツ)を設立した。テーズ自身がそのつもりでなくても、テーズが歩いたあとに“世界王座”の系譜があちこちで枝分かれしていった。  1970年代以降のテーズは、“世界最高峰”NWAと一線を画し、全米各地のローカル団体、弱小インディー新団体のシンパという立場をとりつづけた。  1977年、61歳という年齢でメキシコの新団体UWAの初代世界ヘビー級王者に認定され、翌年には2万7000人の大観衆のまえでエル・カネックEl Canekとタイトルマッチをおこなった。  現役選手としての最後の試合(1990年12月26日=浜松)の対戦相手は新日本プロレスの蝶野正洋だった。  テーズは前年、アメリカ武者修行中だった蝶野にバージニア州ノーフォークの自宅ジムでSTF(ステップオーバー・トーホールド・ウィズ・フェースロック)を伝授した。  74歳のテーズは試合中にでん部を負傷。この5分間の試合に「納得いかず」引退を決意したとされる。  テーズ所有の“黄金のチャンピオンベルト”が最後に現在進行形のメジャー・タイトルとして輝きを放ったのは、1992年から1995年にかけての約3年間だった。  テーズがUWFインターナショナルにベルトを寄贈し、Uインターがこれをプロレスリング世界ヘビー級王座と認定。王座決定戦でゲーリー・オブライトGary Albrightを下した高田延彦がいにしえのテーズ・ベルトを腰に巻いた(1992年9月21日=大阪)。  UインターはWCW、IWGP(新日本プロレス)、三冠ヘビー級王座(全日本プロレス)とテーズ・ベルトの“王座統一戦”を提唱した。テーズ自身は、この90年代前半のUインターとの関係を「プロレス生活のなかで2番めに楽しかった時代」と語っていた。  WWEとの意外なリンクは、あの“ストーンコールド”スティーブ・オースチンがルー・テーズ・プレスという技を好んで使っていたことかもしれない。ロープワークからのカウンターで相手を正面から押しつぶす古典的な“空中技”は、日本ではフライング・ボディーシザース・ドロップと呼称され、J・鶴田が得意技にしていた。  テーズはまぎれもなく“20世紀の鉄人”だった。プロレスラーとしてのいちばん大きな功績は、世界ヘビー級王座を何回獲得したかではなくて、ずっと健康で長生きして、みずからのリアルタイムの実体験としてのプロレス史を後世のプロレスラー、関係者、プロレスファンに伝え残したことだろう。 ●PROFILE:ルー・テーズLou Thesz 1916年4月24日、ミシガン州バナーの山小屋で生まれ、幼少のころミズーリ州セントルイスに移り住む。本名アロイシアス・マーティン・ルー・テーズ(幼名ラヨス・ティザ)。ニックネームは“鉄人”。トレードマーク技はグレコローマン・バックドロップとルー・テーズ・プレス。2002年4月28日、86歳で死去。 ※文中敬称略 ※この連載は月~金で毎日更新されます 文/斎藤文彦
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