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バーン・ガニア 裸の王様になった“AWAの帝王”――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第11話>

 1950年代前半にアメリカじゅうが熱狂したモノクロ映像のプロレス番組“レスリング・フロム・マリゴールド・ガーデン”の顔となったガニアは、ユナイテッド・ステーツ・ヘビーウエート・チャンピオンという“ワールド・チャンピオン”としてWWEがまだ存在しなかった時代のマディソン・スクウェア・ガーデンのリングに上がる。  ビンス・マクマホン・シニアがガーデンのプロモート権を手にするのは1956年11月で、それ以前のニューヨーク・マーケットは複数のプロモーターが競合する“自由市場”だった。  シカゴの大ボス、フレッド・コーラーはテレビという新しいメディアの力でニューヨーク進出を試みた。  古い新聞記事によれば、1953年3月24日のガーデン興行(プロモーターはチャールズ・ジョンストンCharles Johnston)のメインイベントはルー・テーズ対アントニオ・ロッカのシングルマッチで、同年12月14日の同所興行(プロモーターはF・コーラー)のメインイベントはガニア対ロッカのシングルマッチとなっている。  観客にはこれといった説明はなく、この年の10月のガーデン興行から“横綱”だけがテーズからガニアに交代した。  “レスリング・フロム・マリゴールド――”のキャストがシカゴからニューヨークに移動してのコーラー派のガーデン興行は1955年12月までつづくが、1949年から6年間つづいた人気番組の放送終了ともにプロレスの人気が下降し、ガーデン興行も1955年12月から翌1956年11月まで休止。テレビによるプロレス・ブームの終えんだった。  1950年代後半になると北部、中西部の有力プロモーターはガニアがテーズを下してNWA世界ヘビー級王者になるというシナリオを“画策”した。  NWAの内部分裂でチャンピオンベルトはテーズからディック・ハットン、ハットンからパット・オコーナーへと移動をくり返すが、ガニアを推すグループはNWAを脱退し、新団体AWA(American Wrestlig Association)が誕生する。  ガニアは、まず“ルー・テーズ系譜”の世界チャンピオンとされるエドワード・カーペンティアを倒して新設AWA世界ヘビー級王者となる(1958年8月9日=ネブラスカ州オマハ)。これがのちに“オマハAWA”と分類される別派のルーツだ。  ガニアは、ミネアポリスのプロモーターだったトニー・ステッカー(NWAの発起人のひと)から興行会社ミネアポリス・ボクシング&レスリング・クラブを買い上げ、1960年春に正式にAWAを設立した。  AWAはセントルイスのNWA本部とNWA世界王者オコーナーに対し「90日以内にガニアと対戦する義務がある」という文書を送りつけるが、NWAサイドがこれを無視したため、ガニアは同年8月16日付で初代AWA世界ヘビー級王者を名乗ることになる。  この時点では“オマハAWA”と“ミネアポリスAWA”はまだ別団体として活動し、ガニアが2本のチャンピオンベルトを使い分けながらふたつの土地でふた通りの長編ドラマを同時進行させていたが、そのあたりのディテールは3年後の1963年に“ミネアポリスAWA”が“オハマAWA”を吸収合併することで交通整理される。  ガニアはリングの上では世界チャンピオンとして、リングの外側ではオーナー・プロモーターとして約30年間にわたってAWAの帝王の座に君臨した。  興行テリトリーはミネアポリスからシカゴ(イリノイ州)、ミルウォーキー(ウィスコンシン州)、アイオワ州、ノース・ダコタ州、サウス・ダコタ州、カナダ・マニトバ州ウィニペグ、コロラド州デンバー、ラスベガス(ネバダ州)と拡大し、1980年代前半にはカリフォルニア州サンフランシスコにも支局がつくられた。
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1960年代から1980年代まではメジャー3団体共存の時代だった
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