更新日:2022年12月10日 18:30
スポーツ

バーン・ガニア 裸の王様になった“AWAの帝王”――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第11話>

 1960年代から1980年代までのアメリカのレスリング・ビジネスはNWA、AWA、WWEのメジャー3団体共存の時代だった。  ガニアはアマチュア・スポーツからの人材発掘に熱心だった。ミュンヘン五輪からは重量挙げ代表選手だったケン・パテラ、レスリング代表選手クリス・テイラー(故人)をスカウト。イランから亡命し、アメリカでAAU選手権に優勝したカズロー・バジーリ(アイアン・シーク)もガニア道場出身だった。  ガニアは1981年5月、AWA世界王座を保持したまま32年間の現役生活にピリオドを打った。  “ガニア不在”となった1980年代前半のAWAで予期せぬブームを巻き起こしたのはハルク・ホーガンだった。  ガニアは、ホーガンに対して「映画に出ていた体の大きい若手」といった認識しか持っていなかった。  映画『ロッキー3』に出演したこと以外、これといった実績のないホーガンがスタジアム・サイズの観客動員力を持つスーパースターだという現実がガニアにはどうしても理解できなかった。  ホーガンは新日本プロレスとの年間契約スケジュールを消化しながら約2年間、AWAに在籍した。  ホーガン対ニック・ボックウィンクルのAWA世界ヘビー級選手権、ホーガン対ジェシー・ベンチュラのシングルマッチが各地で2万人クラスの大観衆を動員したが、ガニアは最後の最後までホーガンの商品価値を過小評価した。  アマチュア・レスリング出身のガニアにとって、ホーガンはプロ・アスリートというよりはあまり好きになれないタイプのエンターテイナーだった。  ガニアのホーガンに対する評価が正しかったか、正しくなかったかは歴史が証明している。ホーガンはAWAが嫌いではなかったし、将来は団体プロデューサーのポジションにつきたいと考えた。  しかし、ガニアはホーガンとの対等なパートナーシップを望まなかった。“ドゥモン世代”のガニアはケーブルテレビがなんであるかを学習しようとしなかったし、“不可侵条約”を結んでいるはずのWWEがミネアポリスに乗り込んでくるという状況を想定してなかった。  1983年12月、ホーガンは滞在中の東京のホテルからガニアに「もう戻りません」と電報を打った。  ガニアはホーガンが出場しないことを知りながら、ホーガンの試合をメインイベントにクリスマス・ショーの宣伝をつづけた。  ホーガンがアイアン・シークを下しWWF世界ヘビー級チャンピオンになるのはそれから1カ月後のことだった(1984年1月23日=ニューヨーク、マディソン・スクウェア・ガーデン)。  WWEの全米進出プランでいちばん大きな被害を受けたのはAWAだった。ビンス・マクマホンはAWAからホーガン、マッドドッグ・バション、K・パテラ、J・ベンチュラ、アドリアン・アドニス、マネジャーのボビー・ヒーナン、人気アナウンサーのジーン・オークランドらをごっそり引き抜いた。ガニアは“仁義なき戦い”に敗れた。  バーン・ガニア――本名ラバーン・クラレンス・ガニア――は2015年4月27日、家族に見守られながらセントポールのリハビリ・センターで死去。89歳だった。 ●PROFILE:バーン・ガニア Verne Gagne 1926年2月26日、ミネソタ州ロビンズデール出身。1948年、ロンドン・オリンピックに出場。1949年、NACC全米選手権優勝後、プロ転向。1960年、AWAを設立。得意技はスリーパーホールドとコークスクリュー式ドロップキックだった。1981年、AWA世界王座(通算11回保持)を保持したまま55歳で引退。1991年、AWAは倒産。 ※文中敬称略 ※この連載は月~金で毎日更新されます 文/斎藤文彦
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