女性の前を歩いてリードする? それとも後ろを歩いて見守る派?――爪切男の『死にたい夜にかぎって』<第7話>
翌日から、二人で尾行についての勉強をはじめた。一緒に本屋に行ってマニュアル本を買い漁り、インターネットの尾行入門動画を一緒に見て研究を重ねた。尾行がテーマになっている映画を何本も見た。『フォロー・ミー』という映画は、すれ違いが多くなった夫婦が尾行をきっかけに愛を取り戻すという素敵な話で、その結末に二人で涙した。腕立て、腹筋といった尾行をするための基礎体力作りもはじめた。
共同生活も五年を過ぎてマンネリを通り越していた私達。セックスレスになったのはもちろんのこと、日々の会話もできるだけ最低限の会話で済ませるといった酷い関係だった。そんな二人の生活が激変した。普段の会話量も増え、別々に過ごすことが多かった休日もほぼ一緒にいるようになった。家では常に仏頂面だった二人が自然と笑みをこぼすようになった。同棲をはじめた頃の楽しい時間がかえってきた。きっかけが「尾行」というのはあまりよろしくないが、それも私達らしくて良い。
尾行の研究をはじめてから二週間ほど経った。この頃になると、飽き性の二人は尾行という行為自体に興味をなくしていた。お互いにそのことに気付きつつも「もうやめよう」とは口が裂けても言わない。その言葉を口にしてしまったら、現在の良好な関係が終わってしまいそうで怖かった。するつもりのない尾行の研究を一生一緒に続けよう。本気で思っていた。
ある日、やけに天気が良かったので、外に出て実技練習をすることにした。長年住み慣れた中野の街、新井薬師の商店街を歩く私の後ろを、真剣な表情をしたアスカが挙動不審な足取りでついてくる。あれだけ勉強をしたはずなのに、すぐに尾行だとバレてしまう下手糞な動きに苦笑してしまう。もしかしたら、わざとあんな歩き方をして遊んでいるのかもしれない。弁当屋から飛び出してきたおばさんとぶつかりそうになってよろけるアスカ。アスカのすべてがいとしくなる。デートといえば隣同士で歩くのが普通だが、これぐらい距離を取って歩くデートもまた乙なものだ。商店街の端から端まで歩いたところで役割を交代する。今度は私がアスカを尾行する番だ。
「下手糞が。お手本見せてやるよ」
「偉そうに言うなよ。糞野郎」
軽やかなステップで道を飛び跳ねて歩くアスカ。一定の距離を取ってそのあとを追いかける。ウサギを追いかける不思議の国のアリスになったような気分だ。楽しい気分も束の間、不意に過去の嫌な思い出が蘇ってきた。実はこうやってアスカを尾行するのは二回目だ。初めて会った時、アスカは自分の唾をマニア達に売って生活をしていた。私と一緒に暮らすことをきっかけに、唾売り稼業からキッパリと足を洗ったはずが、隠れてまだ商売をしているようだった。悪いなと思いつつも「漫画喫茶のバイトに行く」と家を出たアスカを尾行することにした。私の目に飛び込んできたのは、客と唾の値段交渉をするアスカの姿だった。どうしても彼女を咎めることができなかった私は、やりきれない気持ちを抱えたままその場を離れた。帰り道で風俗に立ち寄り、鷹のような鋭い目をした風俗嬢の唾を飲ませてもらった。女の唾を飲むのは初めてだった。プレイ前の消毒で使ったイソジンの味がした。アスカを信じることのできなかった後悔。その日の夕日が綺麗過ぎたこと。全てを覚えている。
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『死にたい夜にかぎって』 もの悲しくもユーモア溢れる文体で実体験を綴る“野良の偉才”、己の辱を晒してついにデビュー! |
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