薄毛家系に生まれた男の“忘れられない思い出”――爪切男の『死にたい夜にかぎって』<第4話>
―[爪切男の『死にたい夜にかぎって』]―
さまざまなタクシー運転手との出会いと別れを繰り返し、その密室での刹那のやりとりから学んだことを綴ってきた連載『タクシー×ハンター』がついに書籍化。タクシー運転手とのエピソードを大幅にカットし、“新宿で唾を売る女”アスカとの同棲生活を軸にひとつの物語として再構築したのが青春私小説『死にたい夜にかぎって』である。切なくもユーモア溢れる文体で実体験を綴る“野良の偉才”爪切男(派遣社員)による新章『死にたい夜にかぎって』特別編、いよいよ開幕。これは“別れたあのコへのラブレター”だ。
【第四話】髪の毛で遊ぶ二人
「……ね、明日やろっか?」
空気の乾いた気だるい水曜の朝、出勤しようとした私の背中に官能的なお誘いの言葉がかかった。振り返ってみると、ショートボブがよく似合う可愛い女の子が身体をクネクネして恥ずかしそうにしている。彼女の名前はアスカ、同棲して五年近くになる私の彼女だ。「明日やろっか」。男なら一度は女に言われてみたい言葉である。ただ、それは行われることがセックスの場合に限る。「そろそろ切り時だもん。ね?」。そう言って私の髪を指で強く引っ張りながらアスカはまた笑った。
同棲をはじめてすぐ、心の病を患ったことからまったく働けなくなったアスカ。自宅療養をしながら、副作用や依存性の高い薬の量を減らす減薬に彼女は挑戦していた。薬を一錠減らしては様子を見る。錯乱状態に陥るなどの禁断症状が出たら減薬は中止。心と身体が落ち着いたら、また薬を減らしてみる。水前寺清子の『三百六十五歩のマーチ』の歌詞のように、一日一歩、三日で三歩、三歩進んで二歩下がるといった地道なペースでアスカは頑張っていた。
そんなアスカが一番苦手なこと。それは美容室に行くことだった。世間でよく言われる美容室が苦手な理由は「お店のおしゃれな雰囲気が苦手」とか「美容師と何を話していいか分からなくてストレスだ」というものが多い。アスカもまさにこれらの理由から美容室が嫌いだった。他人と意思疎通を図ることが大の苦手だった彼女の苦しみは想像を絶するものだったろう。いつものように美容室帰りのアスカを迎えに行ったある日、彼女の感情が爆発した。
「もっと私の髪の毛のこと褒めてよ!」
「え、うん、可愛いってさっきも言ったじゃん」
「……」
「可愛いよ」
「もっと! もっと! もっと!」
「いつも褒めてるじゃん。どうしたんだよ」
「どうして私がこんな辛い思いまでして美容室行ってると思ってるの!」
「え、そりゃ髪ぐらいはちゃんとしておこうって思ってでしょ?」
「……」
「そんなに嫌なら行かなくていいよ。どんな髪型のアスカも好きだから」
「……」
「……」
「殺すぞ」
「え?」
「お前のために行ってんだよ! いつも迷惑ばかりかけてるから、髪ぐらいはお前の好きなショートボブで可愛くしておいてやろうって思ってんだよ!」
「……」
「ずっと坊主頭のお前には、美容室が苦手な人の気持ちも、女心も分かんないだろうね」
「……」
「ごめんなさいは?」
「……ごめんなさい」
こんなにも激しく女の愛に打ちのめされたことはなかった。次の日、私からアスカにある提案をした。
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『死にたい夜にかぎって』 もの悲しくもユーモア溢れる文体で実体験を綴る“野良の偉才”、己の辱を晒してついにデビュー!
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