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ドキュメンタリーの名手・東海テレビが“テレビ局の闇”に自ら切り込んだ理由

“意図的な編集”はどこまで許される?

 ラストの展開は、「ドキュメンタリーには編集によってどこまで“意図”を入れていいのか」という議論にもつながる。 「難しいですね。ただ経験上、ドキュメンタリーというのは、最後には自分を晒すものだと思います。画面に映っているのは取材対象だけど、そこには作り手の『私には、あなたがこう見えました』が映り込む。だから作り手は、取材対象から『お前には私が、そんなふうにしか見えなかったのか?』と簡単にはねつけられるような浅薄な表現をしてはいけない。むしろ『ああ、私ってこう見えてるんだ』と自分を再発見してもらえるくらい、取材には長い長い時間をかけるべきなんです」  阿武野氏は慎重に言葉を選びながら続けた。 「撮影するのは取材対象の考え方だけではありません。彼らがまとっている空気みたいなものまで持ち帰ってきて、なおかつ、自分は映像を扱う人間として、こう見えました――と報告する。“そう見えた自分”こそがドキュメンタリー」  取材する側も裸になる。まさに「裸のラヴレター」だ。そこには、かつて数々のドキュメンタリー番組を監督してきた阿武野氏の矜持が窺える。 「だから、取材者と取材対象者と作品の関係を安易に考えている人間は、映像をいじるべきではないんです。そして、勝負をしない製作者も退場しなければなりません。例えば、この人のこの表情を使ったら、二度と来るなって言われるかもしれない。だけど、ドキュメンタリーには棘(とげ)があるものです。怒られるかもしれないから棘を見せるのはやめよう、となった瞬間に、表現は成立しなくなりますからね」
阿武野勝彦氏

「ドキュメンタリーは結局、作り手側の裸を晒す行為」と語る阿武野氏

人の裸を見ているだけでいいの?

 『さよならテレビ』でテレビの内幕をさらけ出してしまった彼らは、この先どこに向かっていくのか。 「どこに向かってるんですかね(笑)。『さよならテレビ』の根本は、現代ってどういう時代? いま私たちの社会ってどういう地点にあるの? という問いを、自分たちなりに切り開いてお見せしたものです。その題材が、たまたまテレビだったということ。だけど、ドキュメンタリーの中にはテレビだけじゃなく、今の時代が映り込んでいる。働き方改革とか、メディアと個人の関係とか。  それらを全部お見せして、このままでもいいんだったらいいですけど、このままじゃよくないんだったら、なんか変えていかないとね、と。それはテレビに対するメッセージであるのと同時に、同時代に生きる人たちすべてへのメッセージになりうるもの。『今のままでいんですかね?』という問いは、テレビだけに向けられるものじゃないと思っています」  そんな大仰な挑戦を、いち当事者、いち地方局である東海テレビが仕掛けた。 「『さよならテレビ』の放送を見たいろんなテレビ局の人が、言うんですよ。『東海テレビだからできるんです。うちではできません』って。いやいや、できないんじゃなくて、あなたがやらないだけなんじゃない? みんなやってよ! って思います(笑)。それで変われるかもしれないじゃないですか。皆、このままではいけないと思ったからこそ、密造酒のように録画DVDが出回ったわけでしょう(笑)。人の裸を見るだけでいいんですか? と聞きたい気持ちです」
撮影現場

本作にはテレビ業界だけでなく、今の時代を生きる私たち全員が抱える問題が映り込んでいる/©東海テレビ放送

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ドキュメンタリーほど可能性のある表現はない
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